夕飯の皿を拭いていると,戸を叩く音が続いた。
村はずれの小屋に住むのは,師匠と私。
私らみたいなのは世間的には疎まれてはいるみたいだけど,ここいらのひとは優しい。
赤ん坊が熱を出せば薬を煎じ,作業着が破ければ糸を渡す。
嵐で崖が崩れたときなどは,師匠の出番。
わたしたちは,干し草の香りと,人の困りごとで暮らしていた。
戸を開けるやいなや,少年が肩で息をして立っていた。賢そうな眼がせかせかと動く兄と,いつも丸っこい笑顔の弟――いまは目を瞑って冷たくなっている。
熊か刃物か,目を覆いたくなる裂け方で,血はもう黒ずみ,祈りの余地もないように見えた。
「助けてください」
少年は繰り返し,言葉のはしばしが悲愴に尖った。ふたりに親はいないのだと私は知っていた。麦刈りの帰り道,弟が石ころを拾っては兄に見せ,兄はうるさそうに靴先で蹴っとばす。その光景を思い出す。
師匠は短くうなずき,火の消えかけた竈に息を吹きかけた。
「生きる魔法」を使うのは,滅多にない。使えば,得も失いもする。師匠はそう私に教えていたが,その夜は迷いが見えなかった。
藁の上で,弟の皮膚はしわの下から新しい桃色を覗かせ,破れたところは縫合のように閉じた。胸の奥から,と,と,と,小鳥の足音みたいな拍動が戻ってくる。
「……!」
兄は呻くように叫び,弟を抱きしめた。
だが,涙のしずくに歪んだその口端が,私には奇妙に見えた。
笑いの形をしているのに,頬の筋肉が片側だけで引っ張られているような。
喜びというより,算盤の玉が思いどおりに弾けた時のような。
翌朝から,村は変わった。
これまで戸口に置かれていた卵や噛みかけのパンは消え,代わりに石が飛ぶ。
夕刻,押し寄せた人たちはとうとう火を放った。
炎の中で罵声が混ざり合う。私は師匠の背に隠れながら,よせばいいのに,断片を拾う。
――あれは人の形をした空っぽだ。
――血と肉だけを起こして,心を戻していない。
――羊を操るように弟を動かし,それを治療と言いくるめる。
声の主はあの兄だった。よく通る声が,まるで皆の眉を上向かせているようだった。
「弟は戻ったように見えるだろう。でも,見る者をまどわす殻だ。話しかけても返事の芯がない。おれを見ているようでも,その目は虚ろ。自分の意思で歩いているんじゃなくて,自分の意思で歩いているように見えるだけ――そんなものは弟じゃない」
おおむね,そんなことを言っていた。
辺りに弟の姿はない。
そういえば,整理小屋の裏に,濡れた布がひとつ地面に落ちていた。
泥に赤が混ざり,井戸へ向かう細い足跡が途中で消えているのを,私は見たかもしれない。見間違いかもしれない。炎が揺れて,記憶に火の粉が刺さる。
師匠は何も言わず,ただ私の手を取った。
振り返れば,赤い舌が屋根を舐め,煙が村人の顔を汚してゆく。
頭の中では,あの夜のことが繰り返される。
兄の手は弟の首筋にいつもより深く食い込んでいた。抱きしめるというより,押さえつけるみたいに。
弟がこちらを見た時,瞳の真ん中が,かすかにこちらを掴んだ気がした。何を伝えたかったのか,あるいはなにも無かったのか,いまとなっては確かめようがない。
山の黒と夜の青が混ざる頃,私たちは姿をくらました。
魔法の真偽は分からない。そんなこと,わかりようが無いじゃないか。
わからないまま,私は歩幅を師匠に合わせることだけを覚えた。
靴底に泥が貼りつき,遠くで,燃える家がぱちぱちと拍手している。
