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矯正

矯正

2025.10.26
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ポストを見にいったら,頼ったことのないチラシの中にはがきが一枚まぎれていた。圧着ハガキらしく片面は真っ青。ロゴだろうか,波打つ二重の円がびっしり並んでいる。 裏返すと「重要なお知らせ」と赤いスタンプが押してあった。ガス代の督促状みたいな顔をして,差出人は市の福祉課になっている。

こういうのに「重要」なんて書いてあるとき,だいたいもう手遅れなんじゃないかと私は思う。  
 
読み始めると,ますます嫌な汗が出た。

貴殿におかれまして,所管機関による確認の結果,夢見能力(以下「夢の適正」という。)について,基準値の一部を下回っている事実が判明しました。 現行の運用基準においては,夢の適正が十分でない場合,以下の措置が講じられる場合があります。
1.一部福祉サービスの提供停止
2.将来支給予定の生活補助の支給保留または停止

つきましては,速やかな改善を目的として,当庁指定「夢教習所」への受講を強く推奨します。当該受講は無料であり,受講手続を行うことで,上記措置の対象となる可能性を軽減できる場合があります。

なお,本通知受領後も改善措置を講じず放置したことにより生じた不利益(福祉サービスの停止,生活補助の不支給等)については,すべて本人の責に帰するものとします。

本件に関し不明な点がある場合は,至急お問い合わせください。

私ははがきを持ったまま,台所の椅子に腰をおろした。冷蔵庫がぶんぶん鳴っている。夕方の薄い光で部屋は灰色に見える。

「夢の適正」なんて,いままで一度も考えたことがなかった。寝れば勝手に出るものだと思っていたし,だいたい朝になれば忘れるし。でも,この仕組みに意を唱えられるほどげんきな身の上でもなかった。
私はいま失業保護で生きていて,それには医療と家賃補助がくっついている。つまり,このはがきはほとんど脅しに近かった。

胸の内側が,じわじわと冷たくなる。  
 
翌朝,私ははがきをトートに入れて,電車に乗った。福生。別に近所ではない。というか近所であってほしかった。

うとうともしないまま,電車はひたすら揺れた。線路が郊外を抜けていくにつれ,窓の外に倉庫と駐車場とやけに新しい団地が増えていく。
途中の駅で制服姿の中学生がどっと乗ってきて,次の駅でどっと降りた。誰も寝てはいなかった。みんなスマホを持っていた。たぶん,ちゃんと夢が見られる子たちなんだろうと勝手に思ったら,腹の奥が身勝手に重く沈んだ。

福生の駅前は,新しいものと古いものがきれいにくっつかないまま,互いに無視して並んでいた。
白っぽいホテル,昔からありそうな八百屋,ピカピカの薬局。
道の向かい側に例のロゴがついた立て看板があって,そこに《夢教習所/福生分校》とあった。ロゴの中の二重の円は,よく見ると片方が少しだけ欠けていて,その欠けているところに矢印が描かれている。なんとなく不安を煽るデザイン。  
 
受付の自動ドアが開くと,冷たい空気と,消毒液と新築のプラスチックみたいな匂いが同時に顔にぶつかってきた。

中は,カプセルホテルと診療所とトレーニングジムを,むりやり一フロアに押しこめて足して三で割ったような場所だった。
低い天井,間仕切りばかりの廊下,壁に埋め込まれたスクリーン。
青いのと黄色いのが戦っていて,ポイントのメーターが上下していた。音は出ていない。良い夢の例なんだろうか,と思うことにした。

何より驚いたのは,客層だった。

若い男の人がジャージで座っていて,隣には杖をついたおばあさんがいて,さらに反対側のソファでは小さい子どもを膝にのせたお母さんが同意書みたいなのにサインをしていた。子どもはスリッパをぶらぶらさせて,退屈そうに天井を見ている。肩に貼られたシールの色がみんな違った。赤とか青とか銀とか。

私は受付で名前を言い,はがきを出すと,受付の女性は「あ,はい」とだけ言って,私にタブレットを渡した。そこには「夢履歴入力フォーム」と書いてあって,それぞれの項目に,過去の夢,覚えている範囲で,できれば具体的に,とあった。

そんなもの,覚えているなら苦労はない。

それでもどうにか指を動かして,「スーパーのレジに並んでいたら列がいつの間にかバスになっていた」のと「学校の廊下を歩いていたら角を曲がるたびに同じ廊下に戻ってきて終わらない」の二つを書いた。どちらもたぶん去年か一昨年くらいに見たやつだ。もっと最近のものがあった気はするんだけど,思い出そうとすると指先がしびれる感じがして,そこから先がつるつる逃げていってしまう。

記入が終わると,検査ルームに呼ばれた。

検査ルームは白くて小さくて,イスと,頭を固定する金具と,天井からぶら下がった機械があった。私は機械の下に座らされて,目を閉じたり開けたりしながら,低い音を聞かされた。低い音といっても,音というよりは壁の遠くで蛇口がかすかに震えている振動みたいなものだった。

「はい,お疲れさまでした」

検査員はグレーのスクラブを着た人で,年齢が読めなかった。若い大人にも老けた学生にも見える顔つき,髪はやけにきれいに揃っている。

「では結果をお伝えしますね」

机の上に表示された自分のデータは,まるで学校の成績表みたいに色分けされている。グラフが縦にいくつも並んでいて,「上」「右」「左」「下」「硬」「疎」といったラベルがついている。どこを見ればいいのかわからず固まっていると,検査員が指で一番上のグラフをとんとんと叩いた。

「上の夢は平均以上できてます。これはすごくいいですね」

「……はぁ,ありがとうございます」

とりあえず礼を言っておいた。ほめられたときは礼を言ったほうがいいと思ったから。

「ただ,こちら。右の夢がちょっと,というか,かなり弱いです」

検査員は「右」と書かれた列を示した。そこだけ棒グラフが極端に短くて,赤いゾーンにめりこんでいる。赤いゾーンの下には「要指導」と書いてある。妙に丸いフォント。

「右っていうのは,右ってことですか」

私は自分の右手を見た。検査員は小さく笑った。

「いえ,方向とは関係ありません。方向とはまったく関係ないんですけど,右なんです。専門用語で。わかりづらいとは思うんですが,今の制度ではこの名称で統一されてまして」

「はあ」

「つまり,あなたは上の夢はちゃんとできる。これは立派なことです。上っていうのは,まあ,大きいとか,ひろがるとか,肯定・進展みたいなやつですね」

「肯定の方」

「はい。ただ,右がひどくて。この右があまりに下手だとですね……福祉の方で『自力的自己夢見力』が低いって判定されてしまって,一部の受給に影響が出ることがあるんです。もうご案内に書いてあったかと思いますけど」

「はい」

「で,左と下はまあまあ普通ですし,硬はちょっと硬いけど市の平均よりは柔らかい方です。疎はやや疎いですね。ただ,このへんはすぐには問題になりません。あくまで右です。右だけが,かなり異常にヘタなんですよ」

検査員は,そこだけ声を落とした。叱られているというより,困っている人を前に「正直に話した方がいいから」と言葉を選んでいるような,そんな声音だった。

「右って,具体的にどういう夢なんですか」

「具体的には,まあ,具体的に言えないやつなんです」

検査員はそこだけ少しだけ早口になった。

「右は右なんですよ。言葉にすると右じゃなくなるので。説明すると測定値が変わってしまうので。これは他の受講生にもお伝えしてることでして。ただ,日常生活で,あ,これ右ヘタのせいだなっていう場面は,たぶん心当たりあると思いますよ」

「心当たり」

私は繰り返した。心当たりといえばいくらでもある気もしたし,まったくない気もした。

検査員は,画面を保存して,次の画面に切り替えた。そこに「初級右補講」「応急右対応」「夜間右強化」などと書かれたカリキュラムが並んだ。どれも所要時間二時間とか三時間で,右という単語が何度も出てくるたびに,自分の頭の右側が少ししびれるような気がする。私はとりあえず一番上の「初級右補講」を選んだ。

「日程はこちらで。こちらのボックスにチェックしていただければ,市の方に提出しますので」

検査員は事務的に言い,私もそれに合わせて事務的にチェックを入れた。ボックスは小さくて,指先が震えたらすぐにはみ出す。

部屋を出ると,廊下の空気が夕方に近い色に変わっていた。壁のスクリーンの光が目に刺さる。ロビーの親子連れはもう帰ったみたいで,ソファには誰もいない。受付の女性も,いつの間にか別の人になっていた。同じ制服だけど,髪の分け目が逆だった。  
 
空はほど暗く,ネオンの看板がつきはじめていた。まだ「夜」というほど黒くはないのに,街の方が「夜が来るので閉めます」という態度を先に出している。 せっかくだし,どこかでごはんでも食べていこうと思った。お腹はからっぽだし,さっきから頭もがすがすして,何か食べれば少しは落ち着くような気がした。

駅に向かう道の途中に定食屋があったのを思い出す。丸い赤いちょうちん。焼き魚定食八百円,とガラスに貼ってある。安心する文字だった。引き戸に手をかけた瞬間,中から店主らしい人が「あーごめんね今日はもう」と言いながら,私の目の前で鍵を回した。戸は,するりと私の手から離れて,ぴったり閉じてしまった。中の明かりがふっと落ちる。

向かいのラーメン屋は,ちょうど暖簾をたたんでいるところだった。店員の男の人が,まだ湯気の出ているどんぶりをシンクに放り込んで,シャッターを引く。隣の中華屋は「準備中」の札を「本日終了」に取り替えている。さらにその隣のコンビニまで,店員がレジ前にカゴを積み上げて,「すみませんこちら二十四時間じゃなくなったんで」と,まだこちらが何も言ってないのに言ってくる。

私は立ち尽くした。商店街のシャッターが順番に下りていく音が,まるで海の引き波みたいに連鎖していく。
ガラガラガラ,ガラガラガラ。
音のたびに,街が少しずつ薄くなっていく。

それを見ていたら,急に「あぁ,これが右が下手な所以か」と,妙に納得している自分がいた。  
 
自分の声が,頭の内側で聞こえた。口は動いていない。胸の奥のほうで,ため息に似た太い線が一本,ゆるんでいく。なるほどなあ,これが右かあ,と,どこか他人ごとのように感心している私がいる。私は私を見ていて,「そうそう,これがあなたの悪いとこ,つまり右のとこ」と指さしている。

おかしな感じだった。

その「私」は,いまシャッター街に立っている私ではなかったからだ。どちらかと言うと,検査ルームの機械の下で目を閉じていた方の私に近い。いや,もっと前,電車で窓の外を見ていたときの私かもしれない。うとうともしないで,ただ窓に映る自分の顔と街の看板の反射を見ていた,あの間延びした時間の私。

こっちの私は,お腹が空いていて,足が少し痛くて,駅まで歩くのが面倒だなと思っている。あっちの私は,「これが右が下手ってやつだよ」と物知り顔だ。教官みたいに,私と距離をとって,指導のトーンで説明してくる。

私は両手をポケットにつっこんで,吐く息を見た。まだそんなに寒い季節じゃないのに,白いものが少しだけ混じる。ビルのガラスには,私の顔が二重に映っていた。手前の私と,奥の私。片方は眉間にしわを寄せていて,もう片方はわりと冷静だった。

検査員の言葉がリフレインする。 「日常生活で,あ,これ右がヘタなせいだなっていう場面は,たぶん心当たりあると思いますよ」。

こういうことか,と思う。思った。

空はもうほとんど夜で,でも私の腕時計はまだ,夕方の数字を指している。

福祉を止められるのは困る。これは現実の話だ。家賃も薬代もいまの自分では払えない。来月のことを考えると吐き気がする。だから右の補講も受けるし,通えと言われれば通う。そういうふうに決めることにした。

けれど,その「決めた」という感覚すら,どこかで「はいこれも右ヘタの症状」とラベルを貼られているような,そんな気がする。  
 
少し笑えてきた。

笑いながら,ふと思った。もしかしたら,いま歩いているこの帰り道そのものが,もう夢なんじゃないか。だって,一斉に店が閉まる街なんて,いくらなんでも都合が良すぎる。いや都合が悪すぎると言うべきか。どっちでもいいけど。

私が見ている私と,私のなかにいる私と,夢を見ている私と,夢の中の私。全部がいっせいに「右が下手」と言われて,まとめて減点されて,その減点が家賃補助に反映される。そういう仕組みなんだとしたら,それはもう,かなり上手にできた悪夢なんじゃないかと思う。

でも検査員は言っていた。「上の夢は平均以上できてます。これはすごくいいですね」。私はそれを思い出して,少しだけ安心した。 上はできてる。右はだめ。左と下はまあまあ。硬はちょっと硬いけど市の平均よりは柔らかい。疎はやや疎いけど今はまだ平気。

こうやって並べると,なんとなく自分のかたちが見える気がする。

駅の階段をおりてからふと後ろを振り返ると,教習所のロゴが遠くでぼんやり光っている。二重の円の,欠けている部分だけが白く浮いて,それが矢印に見える。矢印は右を指している。

右。右。右。

口に出した声は小さくて,誰にも届かない。自分にもあまり届かない。矢印は遠くで光ったまま動かない。

電車が来て,ドアが開いた。
私は乗りこんだ。
席に座った。
窓にまた自分の顔が映った。
手前の私は,まぶたが重くなっていく。奥の私は,目を開けたまま,なにかを書きつけているみたいな顔をしていた。

いつのまにか,その区別が,そんなに怖くなくなっていた。

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ポストを見にいったら,頼ったことのないチラシの中にはがきが一枚まぎれていた。圧着ハガキらしく片面は真っ青。ロゴだろうか,波打つ二重の円がびっしり並んでいる。

Published: 2025.10.26

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