最初の報告が上がったのは,月曜日の午前八時十七分だった。
内閣官房の事態対処・危機管理担当室に詰めていた私の席に,警察庁の連絡官から一本の電話が入る。都内のマクドナルド十七店舗で,早朝シフトのクルーが一斉に店舗を出て,歩き始めた——と。
「歩き始めた?」
「はい。列をなして,どこかへ向かっているようです」
「ストライキということですか」
「プラカードは確認されていません。シュプレヒコールもありません。ただ歩いています」
まず疑ったのは労使紛争だった。このところファストフード業界では賃金交渉が難航していたし,SNSを介した同時多発的な抗議行動はここ数年で珍しくなくなっている。厚生労働省に連絡を入れ,日本マクドナルド側にも照会をかけた。
マクドナルド広報の回答は「本社として一切関知していない。至急確認中」というものだった。至急確認中とは,要するに何も把握していないということ。官僚と企業に共通する言語体系のひとつであり,私はこの翻訳に慣れている。
午前十時。事態は一段階,上にずれた。
マクドナルドだけではなかった。ガスト,デニーズ,ジョナサン,サイゼリヤ,吉野家,松屋,すき家,CoCo壱番屋,ケンタッキー,モスバーガー,バーミヤン,しゃぶ葉,ジョリーパスタ。名前を挙げればきりがないが,要するに全国チェーンの飲食店で働くスタッフが,勤務中であろうとなかろうと,制服を着たまま店を出て,歩き始めたのだ。
しかも全員が同じ方向に向かっている。少なくとも関東圏では,概ね西へ。
「西って,どこへだ?」
「不明です。ただ,歩いています」
「それだけか?」
「それだけです」
十一時に第一回関係省庁連絡会議が招集された。正式名称は「飲食チェーン店従業員による集団移動事案に係る関係省庁連絡会議」。命名に十五分かかった。対策に入る前に命名で揉めるのが,この国の危機管理の伝統芸能である。
会議には内閣官房,警察庁,厚労省,国交省,農水省が出席した。なぜ農水省がいるかと言えば,外食産業は食料供給の一端を担っているからだ。なぜ国交省がいるかと言えば,歩いている人間が道路を塞ぎ始めたからだ。
国道十六号の一部区間で,すでに事故が三件起きていた。
車列の隙間を縫って横断するわけでもない。堂々と車道にはみ出して歩いている。信号も無視する。しかし乱暴に振る舞っているわけではない。彼らはただ歩いているだけだ。交通法規を破る意思があるのではなく,交通法規という概念がそもそも視界に入っていないような歩き方をしている。
「止められないんですか」
警察庁の次長が訊いた。
「物理的には止められます」現場の報告書を読み上げる。「ただ,腕を掴んで引き留めても,放すとまた歩き出します。話しかけても反応は鈍い。意識がないわけではなく,『すみません』とか『ちょっとすみません』とか言いながら,歩き続けます」
「催眠術の類か?」
「そんな術師がいたら,ぜひお目にかかりたいですよ」
正午。
報告の密度が爆発的に上がった。北海道から沖縄,全国四十七都道府県すべてで同様の現象が確認された。テレビのニュース速報が最初の一本を打ったのがこの頃で,携帯電話の着信が鳴り止まなくなった。
午後一時。首相官邸で緊急の関係閣僚会合が開かれた。
総理が訊いた。「被害は」
「交通事故が全国で四十七件。重傷者十二名。死者はまだ出ていません」
「行進している側の被害は」
「脱水,熱中症,足の負傷などは数え切れないほど。ただ——これが奇妙なところなのですが——行く先で自らのチェーンの店舗を見つけると,そこから水や食料を確保して,全員に分け与えています」
「略奪ということか」
「性質としてはそうなります,が,暴力的な行為は確認されていません。レジを壊すわけでもなく,厨房に入って冷蔵庫を開け,水やらパンやら持ち出して,整然と配っている。マクドナルドの店員はマクドナルドから,ガストの店員はガストから。他のチェーンには手を出さない」
「律儀な略奪だな」
「はい。律儀です」
国交大臣が手を挙げた。「車の強奪は?」
「一件も確認されていません。徒歩です。あくまで徒歩です。車に乗ろうとする気配すらない」
「歩くことに意味がある?」
「そのように推察されます」
官房長官が議事を整理した。
「つまり現状は,全国のチェーン飲食店スタッフが制服のまま店を出て,特定の方向に向かって歩いている。暴力行為はないが,交通障害と店舗の機能停止が発生している。原因不明。目的地不明。以上でいいか」
「以上です」
「……対策は」
沈黙。
「まず名前を変えましょう」私は言った。
「名前?」
「会議名です。『飲食チェーン店従業員による集団移動事案に係る関係省庁連絡会議』は長すぎます。今後の事態拡大に備えて,もう少し汎用性のある名称にしておいた方がいい」
こうして会議体は「集団移動事案に係る関係省庁連絡会議」に改称された。この判断が正しかったことは,数時間後に証明される。
* * *
火曜日の朝。
寝ていない。正確に言えば,仮眠室の簡易ベッドで四十分だけ意識を失ったが,あれを睡眠と呼ぶのは言葉に対する侮辱だろう。
状況は一夜にして質が変わっていた。
まずアメリカ。ニューヨーク,ロサンゼルス,シカゴをはじめとする全米の主要都市で,マクドナルド,バーガーキング,ウェンディーズ,サブウェイ,スターバックス,チックフィレ等のチェーン店スタッフが一斉に店を出た。
ロンドン。パリ。ベルリン。上海。バンコク。メキシコシティ。サンパウロ。ラゴス。
世界同時。
「全世界のチェーン飲食店で,ですか」
外務省の担当がうなずいた。
「厳密には『一定規模以上のチェーン展開をしている飲食店で制服を着用していた人間』です。個人経営の飲食店では発生していません」
「基準は?」
「調査中ですが,概ね五十店舗以上のチェーンで発生しているようです。四十九店舗以下では起きていない」
「五十店舗」
「偶然かもしれません。ただ,五十という数字に何らかの閾値がある可能性は否定できない」
この時点で,国連が緊急安全保障理事会を招集した。決議は出なかった。出しようがない。誰に対して何を決議するのか。マクドナルドのクルーに対して武力行使を容認するのか。ビッグマックは大量破壊兵器に分類されるのか。議場では真面目にそういう議論がなされたと,後に合衆国の次席大使がオフレコで語っている。
各国の対応は分かれた。
フランスは即座に非常事態を宣言し,軍を展開して行進を物理的に阻止しようとした。結果,兵士が行進者を押し戻すそばから別の方向に迂回されるという壮大なモグラ叩きが発生し,三日で断念した。
中国は報道管制を敷いた上で当局が行進者を拘束したが,拘束した人間を収容する施設のスタッフもまたチェーン飲食店の出身者だったりして,内側から歩き出す者が出始め,混乱が混乱を拘束するという再帰的な事態に陥った。
アメリカは議会で公聴会を開いた。チックフィレのCEOが証人として呼ばれ,「御社の従業員が全米で不法に道路を占拠していることについてどうお考えか」と詰問された。CEOは「日曜日は休業日ですので日曜日の分については責任を負いかねます」と答え,議場が一瞬静まった。
日本政府はどうしていたかと言えば——会議をしていた。
朝の会議で状況を確認し,昼の会議で対策を検討し,夕方の会議で進捗を報告し,夜の会議で明日の会議の議題を整理する。私は議事録を書いている。この国が世界に誇れるものがあるとすれば,未曾有の危機の最中にあってなお,議事録のフォーマットが統一されているということくらいだった。
* * *
水曜日の午後,転機が訪れた。
国交省の担当者が青い顔で飛び込んできた。
「ヤマト運輸です」
「何が」
「ヤマト運輸のドライバーが,トラックを路肩に停めて,歩き始めました」
会議室が凍った。
「飲食チェーンじゃないぞ!」
「はい。飲食チェーンではありません。運送業者です」
「他の運送業者は?」
「佐川急便,日本郵便,Amazon配送——ほぼ全社で同様の報告が上がっています」
午後三時。追加報告。
全国のコンビニエンスストア——セブンイレブン,ファミリーマート,ローソン——のスタッフが合流。
午後四時。
列に,警察官が加わる。
これは深刻だった。治安を維持すべき側が行進に参加するということは,行進を止める手段が物理的に消失するということだ。しかし全警察官が歩き出したわけではない。交番勤務の制服警官は歩いたが,私服の刑事は歩かなかった。機動隊は歩いた。警察事務の職員は歩かなかった。
「法則性が変わっています」
分析官が切り出した。ホワイトボードに殴り書きされたリストを指す。
「当初はチェーン飲食店の従業員に限定されていました。しかし運送業者,コンビニ,警察官にまで拡大している。共通項を洗い直す必要があります」
「共通項って,何だ。マクドナルドの店員と警察官の共通点なんて——」
「制服です」
分析官は若い女性で,発言するときの声が小さいことが唯一の欠点だったが,このときばかりは全員が聞き取った。
「全員,制服を着ています」
沈黙が降りる。
「チェーン飲食店という分類は見当違いでした。チェーン飲食店のスタッフは全員が制服を着用しているから最初に目立っただけです。本質的な条件は制服の着用です。運送業者のドライバーは制服。コンビニ店員は制服。制服警官は制服で,私服刑事は私服。交番のおまわりさんは歩き,刑事課のベテランは歩かなかった。線引きは一貫しています」
「待ってくれ」総理秘書官が口を挟んだ。「その理屈だと——」
消防士が歩き始めたという報告が入ったのは,まさにその瞬間だった。
続いて,自衛隊の駐屯地から。
「陸上自衛隊第一師団,練馬駐屯地の隊員が——」
「歩き出した?」
「はい」
「全員か」
「迷彩服を着用していた隊員のみです。営内で私服だった隊員は無事です」
防衛大臣の顔が灰色になった。
「自衛隊も制服だ」
「はい」
「じゃあ制服を脱がせればいいんじゃないのか」
やってみた。
歩いている人間の制服を無理に脱がせようとすると,激しく抵抗した。これまで暴力的な行為は一切なかったのに,制服を脱がされそうになったときだけ,彼らは必死に抵抗した。あるマクドナルドのクルーは,バイザーを奪おうとした警察官——まだ歩き出す前の——の手を振り払い,「やめてください」とはっきり言った。それ以外のことについては「すみません」としか言わないのに,制服に関してだけは明確な拒否の意思を示した。
着替えるまえの人間に,あらかじめ制服を着せない,という案も出た。
だがここに至って,もうひとつの爆弾が投下された。
全国の中学校,高校から報告が殺到した。生徒が歩き始めた,と。
学校の制服だ。学ランもセーラー服もブレザーも,等しく。授業中に席を立ち,教室を出て,校門を出て,歩き出した。先生が止めようとしたが——体育教師はジャージ姿だった。ジャージは制服か?制服だった。体育教師も歩いた。
会議名を変えてよかった,と心の底から思った。「飲食チェーン店従業員による——」のままでは,もうカバーできない。
「制服を着ている人間が全員歩く。それがこの事態の本質です」
分析官がホワイトボードに赤い下線を引く。
「スーツは?」
誰かが言い,全員が黙った。
この部屋にいる人間は全員スーツを着ている。ネクタイを締め,名札を胸につけている。スーツは制服か。
「……スーツで歩き出した事例は,今のところ報告されていません」
「今のところ」
「はい。今のところ」
全員がネクタイをわずかに緩めた。一斉にではなく,各々のタイミングで,さりげなく。おそらく全員が見ていた。
* * *
木曜日から金曜日にかけて,私は寝る暇を完全に失った。
世界中が同じ結論に達していた。制服。ユニフォーム。チェーン飲食店に限らず,制服を着用していた人間が歩いている。制服を着ていない人間は歩いていない。境界は明確で,例外はなかった。
「行き先は特定できましたか」
国土地理院と防衛省の地理情報部隊が協力して,行進者の移動軌跡を分析していた。
「日本国内については,概ね収束方向が出ています」
画面に日本地図が映し出された。全国各地から出発した行進者の推定経路が矢印で示されている。矢印は放射状に——ではなく,ひとつの点に向かって——収束していた。
「静岡県です」
「静岡?」
「より正確には,掛川市の南方です。御前崎に近い。ただし,完全にピンポイントで特定するにはまだデータが足りません」
世界地図に切り替わった。
各国の行進者も,それぞれの方向に向かって歩いていた。アメリカはネブラスカ方面。ヨーロッパはアルプス山脈の東側。中国は甘粛省。
「一国に一箇所ずつ収束点があるのか?」
「そう見えます。ただし——」
分析官が地球儀を回した。
「全体を見ると,各国の収束点は概ねひとつの大円上に並んでいます。地球を一周する帯の上に,各国の目的地が散らばっている」
「どういった帯ですか」
「わかりません」
金曜日の夕方,掛川市に先遣チームを送った。と言っても,制服を着た人間は軒並み歩いてしまっているので,チームの編成に苦労した。自衛隊員は使えない。制服警官も使えない。使えるのは私服の人間だけだ。内閣官房の職員三名が,スーツのジャケットを脱ぎ,ネクタイを外し(念のため),レンタカーで東名を走った。
高速道路の路肩には,ところどころで座り込んでいる人間がいた。疲労で動けなくなった行進者だ。マクドナルドの赤いポロシャツ。ヤマト運輸のカーキ色の制服。セーラー服の女子高生。制服のまま,ガードレールにもたれかかって眠っている。
後続の行進者が通りかかると,水のボトルを差し出していた。起き上がれる者は起き上がって,また歩き出す。起き上がれない者のそばに,しばらく誰かがしゃがんでいることもあった。言葉は交わさない。ただ隣にいる。そしてまた歩き出す。
先遣チームが掛川市に到着したとき,市内はすでに行進者であふれていた。
あらゆる制服が入り混じっている。ファミリーマートの青と緑。すき家のエプロン。消防の防火服。高校のブレザー。海上自衛隊の白い詰襟。看護師のスクラブ。工場の作業着。警備会社の制服。ガソリンスタンドのつなぎ。全員が同じ方向に歩いている。
「収束点を特定しました」
衛星データと地上の追跡を突き合わせた結果,目的地が割り出された。
掛川市から南へ十五キロ。御前崎の海岸線に近い丘陵地帯の,何の変哲もない一角。
現地に先回りした職員が報告を上げた。
「何がありますか」
「何もありません」
「何も?」
「茶畑です。あとは,古い祠がひとつ。集落からは離れています。本当に何もないです」
「祠には何が祀られていますか」
「わかりません。銘も読めないほど風化しています。地元の人に訊いたら,『昔からあるけど,誰も知らない』と」
「……それだけ?」
「それだけです」
目的地に何もない。この情報が官邸に届いたとき,会議室は妙な脱力に包まれた。
何ひとつ分かっていないまま,数十万の人間がひたすら歩いている。
* * *
土曜日。
先頭の行進者が,掛川の丘に到着し始めた。
先遣チームの職員がその場にいた。私は官邸のモニタールームで,衛星とドローンの映像を見ていた。
午前六時。
朝靄のなかを,最初の一団が丘を登ってきた。マクドナルドのクルーだった。赤いポロシャツに黒いスラックス。バイザーをかぶった若い女性が先頭だ。二十人ほどの列が,茶畑の間の細い農道を上がっていく。
丘の頂上に着いた。
茶畑に囲まれた,小さな平地。古い祠。遠くに海が見える。
先頭の女性が立ち止まった。後続も立ち止まった。
全員が,海の方を見た。
そして——座った。
地面に。茶畑の畝の間に。農道の上に。何の前触れもなく,全員がその場に腰を下ろした。
次の一団が到着した。コンビニのスタッフだった。同じだった。丘に登り,立ち止まり,座った。
次。消防士。次。高校生。次。宅配ドライバー。次。看護師。次。工場作業員。
丘の上に,制服の人間が増えていく。誰も喋らない。誰も立ち上がらない。座って,海を見ている。風が茶畑の葉を揺らしている。
「何をしているんですか」
先遣チームの職員が,近くに座っていたガストの店員に話しかけた。
店員は中年の男で,名札には「副店長 田中」と書いてあった。額に汗が光っている。何百キロ歩いたのかはわからないが,靴は泥だらけで,エプロンの裾が破れていた。
田中副店長は,海の方を見たまま答えた。
「休憩です」
「休憩?」
「休憩です」
「ここまで歩いてきて?」
「はい」
「なぜここに?」
田中副店長は少し考えた。考えるというよりも,自分の中にある何かを探っているような間があった。
「わかりません,が,ここでした」
それ以上は何も言わなかった。隣に座っていたセーラー服の女子高生も,向こうにいた佐川急便のドライバーも,同じような答えだった。わからない。でも,ここだった。
丘は午前中のうちに人で埋まった。制服の海だ。赤,青,白,黒,カーキ,紺,緑。あらゆる色の制服が,茶畑の緑を下地にして点描画のように広がっている。数千人。いや,万を超えているかもしれない。全員が座っている。全員が黙っている。
ドローンの映像を官邸で見ていた総理が言った。
「何を待っているんだ」
誰にも答えられなかった。
しばらくして,変化があった。
丘の端に座っていたマクドナルドの若い男が,横にいた消防士に何か話しかけた。消防士が笑った。何を話しているかは聞き取れなかったが,消防士がポケットからガムを出して,マクドナルドの男に渡した。男はガムを噛んだ。二人は並んで海を見ていた。
別の場所では,看護師のスクラブを着た女性が,隣の高校生の足を診ていた。靴擦れがひどかったらしい。看護師は自分のポケットから絆創膏を出して貼ってやった。高校生が頭を下げた。看護師は手を振った。
コンビニの店員と自衛官がじゃんけんをしていた。理由はわからない。
すき家のスタッフが,どこから調達したのか,おにぎりを周囲に配っていた。ヤマト運輸のドライバーが水のペットボトルを運んでいた。自分たちの商売道具で——最後の配達のように——丁寧に手渡している。
夕方になった。
夕日が海をオレンジ色に塗った。丘の上の制服の群れが,すべて同じ色に染まる。赤いポロシャツも紺のブレザーも白い詰襟も,夕日の下では全部同じ色だった。
一人が立ち上がった。
先頭のマクドナルドの女性だった。バイザーを取って,海に向かって大きく伸びをした。
つられるように,ぽつりぽつりと人が立ち上がり始めた。
伸びをしている。腕を上げて,背筋を反らして,声にならないうめき声みたいなものを出しながら伸びをしている。数千人の制服姿の人間が,茶畑の丘の上で,夕日に照らされて,一斉に伸びをしている光景を,私はモニター越しに見た。
何だこれは。
何だこれは。
マクドナルドの女性が,バイザーを被り直した。そして丘を下り始めた。来た方向と反対に。
「動き始めました。行進者が——え,方向が逆です。帰路についています」
先遣チームの報告。
帰り始めた。全員が。座って,休んで,伸びをして,そして帰り始めた。来た道を戻るのではなく,最短経路で——つまり帰るべき場所に向かって——歩き出した。
世界各国の収束点でも,同時刻に同じことが起きていた。ネブラスカの丘で。アルプスの山麓で。甘粛省の高原で。ナイジェリアの平野で。座って,休んで,立ち上がって,帰った。
日曜日の夜。
最初に戻ったのはコンビニのスタッフだった。店に入ると,制服のまま——彼らはこの数日間ずっと制服のままだった——レジに立ち,「いらっしゃいませ」と言った。何事もなかったかのように。ただし,靴だけは泥だらけのままで。
月曜日。飲食チェーンの大半が営業を再開した。マクドナルドの広報が声明を出した。「弊社クルーは全員無事に店舗に復帰いたしました。お客様にはご不便をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。なお,一部店舗では復帰したクルーにより通常以上の品質でサービスが提供されているとの報告を受けております」。最後の一文は意味がわからなかったが,マクドナルドにしてはずいぶん正直な声明だった。
火曜日。学校が再開し,生徒が教室に戻った。警察官が交番に戻り,消防士が署に戻り,自衛官が駐屯地に戻った。物流が回復し,宅配便が届き始めた。世界が,ゆっくりと巻き戻された。
水曜日。「集団移動事案に係る関係省庁連絡会議」の最終会合が開かれた。
議題は「総括と報告書の取りまとめ」。
報告書の結論を書く段になって,私は筆が止まった。原因は書けない。わからないのだから。目的も書けない。「休憩」としか言いようがない。再発防止策に至っては,そもそも何を防止すればいいのかが不明だ。制服の着用を禁止するわけにもいかない。
結局,報告書の結論部分はこうなった。
「本事案は,制服着用者が自発的かつ非暴力的に一定の地点に移動し,一定時間滞在した後に原隊復帰したものである。発生原因,移動の動機,目的地の選定理由については,現時点では解明に至っていない。引き続き関係機関において調査を継続する」
官僚作文の極致である。何も言っていないに等しい。何を言えばよかったのかは,今もわからない。
報告書を書き終えた夜,私はようやく家に帰った。
九日ぶりの帰宅だった。よれたスーツを引きずり,コンビニで缶コーヒーを買った。レジに立つ店員の制服は新品のように見える。パリッとアイロンのかかったポロシャツ。真新しいエプロン。名札が少しだけ曲がっている。
「行ってきたんですか」
私は訊いていた。自分でも驚いた。公務員は調査対象に個人的な質問をすべきではない。だが,もう報告書は出してしまった。
店員は——二十歳前後の,背の高い男だった——少しだけ笑った。
「行きました」
「どうでしたか」
「海が見えました」
それだけ言って,彼はレジに向き直った。
駅までの道を歩いていると,すれ違う人間の服が目に入る。スーツの会社員。作業着の工事現場の人。白衣の薬局の人。スーパーのエプロンをつけたままの人。
全員が,制服を着ていた。
考えてみれば当然だ。この国の人間は,大半の時間を制服で過ごす。学生服で十二年。スーツで四十年。あるいは作業着で,白衣で,エプロンで。起きている時間の三分の二を,自分で選んだのではない服で過ごしている。
あの丘で,全員が同じ方向を見て座っていた。制服はバラバラなのに,全員が同じ方向を見ていた。夕日の方を。海の方を。どこか遠くの,制服を着ていない自分がいるかもしれない方角を。
家の最寄り駅に着いた。改札を出ると,夜風が首筋に当たった。ネクタイがまだ締まっている。
結び目を緩め,引き抜き,スーツの内ポケットに押し込み,ジャケットのボタンを,第一ボタンも外した。名札は——そういえば,もう三日前に外していた。念のため。
たいした変化ではない。ジャケットを脱いだわけでも靴を履き替えたわけでもない。端から見れば,ネクタイを緩めたくたびれたサラリーマンだ。
それだけのことだ。
それだけのことなのに,足が軽かった。缶コーヒーを片手に,夜の住宅街を歩く。歩いている。私は歩いている。目的地は家だ。制服姿ではあるが,ネクタイだけは外した,中途半端な姿で,私は家に向かって歩いている。
西の空に,雲の切れ間から星がひとつ見えた。掛川の丘からも,たぶん同じ星が見えただろう。
何だったんだろうな,あれは。
たぶん一生わからない。報告書にも書けないし,有識者を集めた検討会でも結論は出ないだろう。原因不明。動機不詳。再発の可能性は否定できない。
ただ,ひとつだけ。
帰ってきた店員たちの目は,どこか澄んでいた。泥だらけの靴のまま「いらっしゃいませ」と言うその声には,九日前にはなかった何かがあった。それを言葉にする能力は,少なくともこの官僚にはない。報告書の様式に,そういう欄はない。
家の灯りが見えた。
「ただいま」とは言わなかった。九日も帰らなかった人間が「ただいま」と言うのは,どうにも照れくさい。だから黙って玄関を開けて,靴を脱いで,いそいそとソファに座った。
妻が奥から出てきて,何も言わずに温かい茶を置いた。
私はスーツのまま,茶を飲んだ。
うまかった。
