コンクリートの打ちっぱなしに蛍光灯が二本,そのうち一本はジジジと音を立てて明滅している。空気は湿っていて,どこかで換気扇が回る低い音。地下だ,と彼は直感した。見当たらない窓,壁面のところどころに滲んだ水の跡。間違いない。
園部洋一が身体を起こす。後頭部に走る鈍い痛み。最後の記憶は金曜日の終電で,新橋駅のホームでスマートフォンを見ていたところまでで,その先はない。記憶に境目がなく,画面を見ていた視界がそのまま天井に切り替わっている。動画の読み込みが途切れて広告が入ったような不連続。
首に何かがある。手で触れると,硬くて冷たい。金属。幅は三センチほどで,後ろ側に小さな箱がついている。首輪だ。
周囲を見回す。コンクリートの箱のような空間に,十二人の人間がいた。ほとんどが床に倒れた状態から起き上がりつつある。老若男女——という表現がぴたりとはまるくらい,年齢も性別もバラバラだった。高校生くらいの男子。六十代に見える白髪の女性。スーツ姿のまま横たわっていた中年男。ジャージの若い女。全員の首に,同じ金属の輪。
園部は三十四歳,メーカー勤務の営業だ。妻と二歳の娘がいる。ここにいていい人間ではないし,そもそも,ここにいていい人間などこの部屋には一人もいないだろう。
誰もが察していた。
正確に言えば,誰もが「察するべきもの」を知っていた。密室。見知らぬ男女。首輪。蛍光灯。コンクリートの壁。この符号の組み合わせが指し示す先は一つしかない。漫画で読んだ,映画で観た,ドラマで観た,金曜の夜に配信サイトで流し見した。あまりにも多くのフィクションが,この構図を反復してきた。
だから,天井のスピーカーから声が流れたとき,全員が思ったより冷静でいられた。
「おめでとうございます。皆さんは『セフィロトへの磔』の参加者に選ばれました」
声は加工されていた。低音のピッチシフト。これもお約束。
「これからゲームのルールを説明しますが,よく聞いてください。仮にルールに違反した場合,首輪が——」
「起爆するんでしょ」
スーツ姿の中年男が,だるそうに言った。声はスピーカーを無視して続けた。
「——はい,首輪が起爆します。では,ルールです」
全員が,一応は耳を傾けた。
「ルールは以下の通りです。これから順番にひとりずつ,部屋の中央に出てください。私が出す『問題』に答えてもらいます。正解なら生存。不正解なら——」
「死ぬんですね」
白髪の女性が淡々と確認した。
「——はい。死にます」
「問題って,どんな問題ですか」
「一般常識のクイズです」
蛍光灯がジジジと鳴き,換気扇が回る。十二人の男女は,沈黙している。
「すみません」
園部が口を開いた。
「一般常識のクイズ,というのは」
「はい。たとえば『日本で一番高い山は』といった」
「富士山」
「正解です。——ま,いま正式なゲーム中ではありませんので,カウントはされませんが」
「それだけですか?」
「はい」
「不正解だったら死ぬんですよね」
「はい」
「日本で一番高い山を答えられなかったら」
「死にます」
園部は周囲を見回した。十一の顔が,ほぼ同じ表情をしていた。呆れ,困惑,そして微かな侮蔑。恐怖ではなかった。恐怖の手前にある,もっと根源的な感情——つまらなさ。
「あの」スーツ姿の女が手を挙げた。のちに笹倉伊織と名乗ることになる女だ。「他にルールは?」
「他の参加者を攻撃してはいけません」
「それだけ?」
「はい」
「制限時間などは」
「特に設けていません」
「参加者同士の相談は」
「自由です」
「……つまり全員で相談して全問正解したらそれで終わりってことですか」
スピーカーが,少し間を置いた。
「……はい」
「はい,じゃないでしょう」
声を荒らげたのは,大学生風の若い男だった。碓井大和。就職活動中で,面接の帰りに拉致されたらしい。ネクタイが曲がっている。
「これに答えられない人間がいると思ってんですか。小学生でも解けますよ。百歩譲って知識問題でふるいにかけたいなら,もっと難易度上げないと意味ないでしょ。相談自由で制限時間なしって,そんなのスマホ取り上げた意味すらない。Googleなくても十二人いたら大抵のことは誰か知ってる。ゲームとして成立してないんですよ」
碓井の指摘は的確だった。というより,この部屋にいる全員が同じことを思っていた。
デスゲームを主催するからには,設計者にはそれなりの哲学があるはず。人間の本性を暴きたいのか。極限状態の選択を観察したいのか。純粋な悪意か。あるいは社会への問題提起か。いずれにせよ,「日本で一番高い山は」では,何も暴けないし,何も観察できない。
このゲームには,思想がない。
笹倉が立ち上がった。鎖骨の下あたりまで伸びた髪を一つに束ねている。ITコンサルティング会社の「シニアコンサルタント」という肩書きの持ち主だが,このときそんなことは誰も知らない。
「提案があります」
笹倉の声は澄んでいて,不思議と通った。コンクリートの壁に反射して,部屋全体に行き渡る。
「参加してもいいです。ただし,ゲームを改善させてください」
スピーカーが沈黙した。
「聞いてますか」
「……改善?」
「このままでは参加するに値しません。私たちは命を賭けるんです。賭ける側にも矜持がある。こんなクソみたいなゲームで死ぬのはまっぴらです」
言葉が強い。しかし声は冷静だった。
周囲がざわめいた。ざわめきは,しかし反対ではなかった。
「賛成」碓井が即座に。「やるならちゃんとやってほしい」
「ぼくも」高校生風の男子——桐生蓮が頷いた。「このゲームで死んだら恥ずかしい。友達に言えない」
死ぬことより恥ずかしさを気にしている高校生の発言に,誰もがほんの少し笑った。
「あなたは」
笹倉がスピーカーに向かって訊いた。「ゲームマスターと呼べばいいですか」
「……はい」
「ゲームマスターさん。あなたは,本当にこのゲームをやりたいんですか」
長い沈黙。
「やりたい……です」
「では,一緒に作りましょう。あなたが本当にやりたいゲームを」
* * *
笹倉伊織の本領は,ここから発揮された。
「まず要件を整理します」
笹倉はゲームマスターに「何か書くもの」を要求した。スピーカーの横の壁にスリットがあり,そこからホワイトボードのマーカーが三本出てきた。ホワイトボード本体は出てこなかったので,コンクリートの壁に直接書くことになった。
「ゲームマスターさん,いくつか質問させてください。まず——なぜデスゲームをやりたいと思ったんですか」
スピーカーの向こうで,気配が揺れた。
「……それは」
「正直に答えてください。ここにいる全員の命がかかっています。つまりあなたの構想に命の価値ぶんの真剣さで向き合うということです。嘘は要りません」
間があった。
「……人間の本性が,見たかった」
「本性というのは,具体的にはどういうものですか。性善説を確認したいのか,性悪説を確認したいのか」
「……わかりません」
「わからない」
「見てみないとわからないんです。人間が極限状態でどう振る舞うのか。裏切るのか,助け合うのか。それを,見たかった」
笹倉は壁に「目的:極限状態における人間の行動観察」と書いた。字は小さく端正だった。
「わかりました。次に,どのようなゲームにしたかったんですか。一般常識クイズは,最初の構想通りですか,それとも妥協の結果ですか」
「……妥協です」
「最初はどんなゲームを考えていたんですか」
また間があった。今度はもっと長くの。
「……ポーカー」
「ポーカー」
「テキサスホールデムの,変則ルールを考えていたんですが……ルールが複雑になりすぎて,説明しきれなくなって……」
声がだんだん小さくなっている。スピーカーの向こうで,ゲームマスターが縮んでいくのが伝わってくる。園部はこの瞬間,ゲームマスターに対する恐怖が完全に消えたのを感じた。
「複雑になりすぎた」
「条件分岐が多くて。Aの場合はBだけどCの場合はDで,でもEが発生したらBに戻って……みたいな」
「ポーカーの変則ルールを自作しようとして,テストプレイもせずに本番を迎えた,と」
「……はい」
笹倉は壁に「課題:ルール設計の未熟さ。テスト不足」と書いた。
「それで一般常識クイズに逃げた」
「逃げた,というか……」
「逃げたんです」笹倉は断定した。「やりたいことと,できることの間に乖離があった。その乖離を埋める努力をせずに,できることの範囲に目的を矮小化した。典型的なスコープの縮退です」
コンサルタントがクライアントに要件定義のダメ出しをする場面を,園部は何度か仕事で見たことがある。あのときと同じ空気が,コンクリートの地下室に漂っていた。
「他に見たかったものはありますか。本性を見たい以外に」
「……ドラマ」
「ドラマ」
「同盟ができたり,裏切りがあったり。信頼していた相手が実は敵だったとか。そういう……物語が生まれる瞬間を,見たかった」
笹倉の手が止まった。
「それは——かなり高度な要件ですね」
ゲームマスターの声が,ほんの少し明るくなった。照れが混じっている。
「無理ですか」
「無理じゃありません。ただ,ドラマが生まれるためにはゲームの構造に非対称性が必要です。全員が同じ情報を持っていたら,合理的に最適解を選ぶだけで終わる。情報の偏りがあるから疑心暗鬼が生まれ,疑心暗鬼があるからドラマが生まれる」
笹倉は壁に書いた。「要件2:情報の非対称性。要件3:同盟と裏切りの動機構造」
碓井が口を挟んだ。「囚人のジレンマみたいなことですよね。協力した方が全体の利益は大きいけど,裏切った方が個人の利益は大きい。あの構造が入ってないと話にならない」
「そう。ゲーム理論の基本です」笹倉が頷いた。「ゲームマスターさん,もう一つ。参加者は何人が理想ですか」
「……十二人,です」
「今ちょうど十二人ですね」
「はい。設計通りです」
「そこだけですけどね」
* * *
改善作業は,驚くほど順調に進んだ。
というのも,この部屋には妙に人材が揃っていたのだ。
碓井はゲーム理論を専攻する大学院生だった。就活と言っていたのは修士の就活で,戦略的意思決定の数理モデルなら寝言でも語れる。彼がゲームの骨格を設計した。
白髪の女性——三谷啓子は元数学教師で,確率と期待値の計算を即座に,暗算でこなした。各ラウンドの生存確率が偏りすぎないよう,パラメータの調整を担当した。
桐生蓮は高校二年生だが,ボードゲームカフェでアルバイトをしており,「テストプレイ担当」として自らを売り込んだ。ルールの穴を見つける嗅覚は彼が一番鋭い。
園部は営業畑のメーカー勤務だが,学生時代にTRPGをやり込んでいた過去があり,「ゲームにおける物語の発生条件」について一家言ある。
「ルールだけじゃ物語は生まれない,と思っています」
園部は壁に図を描きながら言った。
「人狼が面白いのは,嘘をつく側と見抜く側っていう役割があるからで。役割があるとき,人は自然とキャラクターを演じ始める。演じ始めると,そこに感情が乗る。感情が乗ったとき,初めてドラマになる,という感じです」
「じゃあ役割を入れましょう」笹倉が壁に書き足す。「例えば,人狼型の隠匿系など」
「それだと既存のゲームの焼き直しになりそうで。ゲームマスターさんが見たいのはもっと——なんていうか,本性でしょう?」
「本性」
「嘘をつく『役割を与えられた人間』と,本性から嘘をつく人間は違いますよね。役割を取り払っても嘘をつくかどうか。そこが見たいんじゃないですか」
スピーカーの向こうで,ゲームマスターが「そ,そうです」と小さく言った。
笹倉が目を光らせた。
「つまり——役割は与えない。でも,構造的に嘘をつくインセンティブが発生する状況を作る」
「それだ」碓井が指を鳴らした。「メカニズムデザイン,といいます。人間の合理的行動を前提にして,特定の行動が自然に誘発されるようにゲームの仕組みを設計する。嘘をつけとは言わないけど,嘘をついた方が得になる構造を埋め込む」
議論は白熱した。壁はマーカーの線で埋まっていった。蛍光灯のジジジという音は,いつの間にか止まっていた。ゲームマスターが直した――止めたのだ。不良ではなく,雰囲気作りの一貫ということだった。「気になるだろうと思って」と,気遣いの言葉まで添えて。
協力的だった。必要な物を訊けば,何でも出てくる。追加のマーカーはもちろん,模造紙,付箋,ペン,サイコロ,トランプ,ポーカーチップ,タイマー。笹倉が「議論のためにコーヒーが欲しい」と言ったら,スリットから缶コーヒーが十二本出てきた。十三本目を開けるプルタブの音もスピーカー越しに聞こえた。
四時間後。
壁に書かれたルールは,次のようなものだった。
参加者十二名を三つのグループに分ける。各グループには異なる情報が与えられる。ラウンドごとに「資源」の分配を巡る交渉を行い,合意に達しなかった場合は全員の資源が減少する。資源がゼロになった者は脱落(原案では「死亡」だったが,この時点では誰もその言葉を口にしなかった)。ただし,各グループに一つだけ「秘匿目標」が設定されており,これを達成すると自分のグループだけが追加資源を得る。秘匿目標の内容は他グループに知られてはならないが,嘘の情報を流すことは自由。さらに,各ラウンドの終了時に一名だけ「グループ間の移籍」が可能で,移籍した場合は元のグループの秘匿目標を知っているため,情報の売り買いが発生する——。
「面白い」
ゲームマスターが呟いた。スピーカーの向こうの声には,もはやピッチシフトがかかっていない。いつの間にか地声になっている。若い男の声。
「あ,ひとつ忘れてました」
桐生が手を挙げた。
「テストプレイしたいんですけど,コマとかありますか。人数ぶんの,何か駒みたいなもの」
スリットから,十二個のチェスのポーンが出てきた。色はバラバラで,明らかにセットを崩して寄せ集めたもの。
五時間目からはテストプレイが始まった。
十二人が三つのグループに分かれ,模造紙の上に仮のボードを広げて,ポーカーチップを資源に見立てる。第一ラウンドの交渉が始まると,園部は自分でも驚くほど没入した。
隣のグループが何を狙っているか分からない。こちらの秘匿目標を達成するには相手の提案を蹴る必要があるが,蹴ると資源が全体的に減る。減ると全員が苦しくなるが,苦しくなった方が裏切りのインセンティブは上がる——。
「これ,いい感じじゃないですか」
三谷が目を丸くする。元数学教師は確率の計算をしながら,同時にゲームを楽しんでいる。
「交渉の余地が絶妙なんですよ。完全に計算で解けるわけでもなく,完全に運でもない。人を読まないといけない」
碓井は黙々とプレイしながら,ときどきメモを取っていた。メカニズムの設計者が自分の設計を検証している目つき。
テストプレイは二時間続いた。終了後,全員から改善点が出た。「第三ラウンドから急にダレる」「移籍のタイミングが早すぎる」「秘匿目標の難易度にばらつきがある」。笹倉がそれらを壁に書き出し,碓井が数理的に検証し,桐生が「ここ悪用できちゃいます」と穴を指摘し,三谷が確率を修正した。
七時間目。ルールの第二版が完成した。テストプレイの二回目は,さっきより格段に面白い。交渉が白熱し,園部のグループ内で小さな裏切りが発生し,裏切られた側が声を荒げ,そこに別グループからの移籍者が加わって同盟の構図が塗り変わる——。
ゲームマスターが口を出した。
「あの,一つ提案なんですが」
全員の手が止まった。
「最終ラウンドの直前に,全グループの秘匿目標を公開するっていうのはどうですか。そうすれば最後の交渉だけは全情報が開示された状態でやることになる。それまでの嘘が全部バレるんです。その上で,最後に誰と組むかを決める。——ドラマが生まれると思うんですけど」
沈黙。
笹倉が振り返った。
「それ,いいですね」
「すげえいい」碓井が唸った。「情報の非対称性を最終ラウンドで解除することで,それまでの裏切りの清算が起きる。感情的にも構造的にも,クライマックスが保証される」
壁にルールが追加された。
テストプレイの三回目。園部は笑いながら悔しがり,三谷は計算を捨てて直感で勝負に出て,桐生は全員を出し抜く裏切りを決めた後に「すみません」と本気で謝り,碓井は自分が設計したメカニズムに自分がはまって頭を抱えた。
ゲームが,完成しつつあった。
* * *
九時間目。
全員が壁際に座り,缶コーヒーの二本目を飲んでいる。ゲームマスターからの差し入れで,おにぎりとサンドイッチも出てきた。コンビニのもの。スリットの大きさからして,ゲームマスターがコンビニの袋をそのまま押し込んだのだろう。鮭と昆布とツナマヨ。ツナマヨが一番先になくなった。
「かなり良くなりましたね」笹倉が壁の全面を見渡しながら言った。
「良くなりました」ゲームマスターの声がスピーカーから返ってきた。もはや完全に地声で,敬語すら怪しくなっている。「最初のクイズとは比べものにならない」
「じゃあ——始めますか」
笹倉が言った。
ぴたりと,空気が止まった。
そう。始めなければならないのだ。テストプレイはテストプレイだ。本番は,首輪が起爆するほうの,命が賭かったほうの,あちらだ。この九時間で作り上げたゲームは,デスゲームとして設計されたのだ。負けた者は死ぬのだ。
「始め……ますか」
園部が呟いた。
誰も動かなかった。
三回のテストプレイを経て,このゲームが面白いことは全員が知っている。面白いと知っているからこそ,命を賭けてプレイする覚悟は——正直に言えば——ある。少なくとも,最初のクイズで死ぬよりは,このゲームの果てに死ぬ方がまだ納得がいく。自分たちの手で作ったゲームだ。人生の最後に打ち込むものとして,悪くない。
「では——始めましょうか」
ゲームマスターの声。もはや地声で,そこにはルールを改善する作業に九時間付き合った者特有の達成感すら滲んでいる。
「ただ,その前に一つ」
ゲームマスターは少し間を置いた。置き方が,なにかを切り出しかねている人間のそれだった。
「……あの,誰か,ゲームマスターをやりたい方はいませんか」
沈黙。だがそれは,さっきまでの穏やかな沈黙とは質が違った。
「僕はその——正直に言うと,プレイヤーとして参加したいです。テストプレイを見ていて。皆さんが交渉しているのを,ずっとモニター越しに見ていて。——あの,どうかとは思ってるんですが」
声が震えていた。恐怖ではなく,欲望で。
碓井が鼻で笑った。
「何言ってんですか」
冷たかった。九時間の共同作業で縮まったはずの距離が,一瞬で元に戻っている。いや,元より遠い。
「あなたがこっちに来たら,こっちの誰かがそっちに行くってことでしょう。冗談じゃないですよ」
「いや,でも——」
「無理です」笹倉が遮った。声は穏やかだが,取りつく島がない。「立場を考えてください。このゲームのプレイヤーは私たちです。あなたは主催者。それは最初から変わっていません」
桐生がポーカーチップを握りしめたまま,黙ってかぶりを振った。三谷は微笑みを貼りつけて目を逸らした。
園部は何も言えなかった。ゲームマスターの気持ちは痛いほどわかる。テストプレイのあの高揚。あれを命懸けでやれるなら――やりたい。やりたいに決まっている。だからこそ,この席は誰にも渡せない。自分で設計に参加した,自分のゲームだ。情報の非対称性。交渉の駆け引き。同盟と裏切り。最終ラウンドの清算。あの興奮を,観客席から眺めるだけなど耐えられるはずがない。
「……どなたか,いませんか」
ゲームマスターが,もう一度言った。声が小さくなっている。
答えはもう出ている。全員がNOだった。碓井が靴の先を見つめている。三谷は微笑みを崩さないまま,しかし目だけが泳いでいる。桐生はポーカーチップを握りしめて黙り込み,笹倉はマーカーのキャップを外して,閉めて,また外している。園部は自分の爪を見ていた。
ゲームマスターが三度目の口を開きかけたとき——。
その男は,ずっと隅にいた。
換気扇のすぐ下,コンクリートの壁にもたれて座っている。ゲームの改善には参加していない。九時間のあいだ,ほとんど口を開かなかった。テストプレイにも入らず,壁に書かれたルールを一度も見に行こうとしなかった。
最初の一時間でゲームマスターに「タバコを返してくれ」と言い,スリットから出てきたセブンスターの箱を受け取ってからは,換気扇の下で一本また一本と吸い続けていただけだ。
五十代の半ばに見える。体格は中肉で,白い開襟シャツの袖をまくっている。目は細く,顔には深い皺が刻まれているが,老けているというよりは風雨に晒された木のような質感がある。
男が立ち上がった。
タバコの火を靴底で消して,首の後ろを一度だけ掻いた。
「おれがやるよ」
全員が振り向いた。
「ゲームマスターとかいうやつ。おれがやる」
笹倉が目を細めた。
「……参加しなくていいんですか」
「性に合わねえ」
男はそれだけ言った。それ以上の説明をする気配もない。九時間の議論の蓄積を見もしなかった人間の「やるよ」は,理由がないぶん,反論のしようがない。
沈黙。
「本当に」園部が訊いた。
「いい」
碓井が口を開きかけて,閉じる。桐生がチップを弄ぶ手を止めた。三谷が「あらあら」と呟く。笹倉が,ゆっくりと頷いた。
壁の一部が開いた。
スピーカーの向こう側の部屋は,意外なほど狭い。モニターが数台並び,コンソールの隣には小さな冷蔵庫。コンビニの袋が丸めて捨ててある中に,ツナマヨおにぎりの包装が見えた。
ゲームマスターが姿を現した。二十代前半の,痩せた青年。園部と目が合ったとき,少し笑った。照れくさそうに。人を十二人拉致して爆弾をつけた人間の笑い方ではなく,文化祭の出し物がうまくいかなくて困っている実行委員の顔だった。
青年はコンソールに手を伸ばし,男の首輪のロックを解除する。かちり,と小さな音がして,金属の輪が開いた。
その首輪を犬のように見つめる青年に男は無造作に差し出した。
「ほら」
両手で受け取る,冷たい金属の重み。爆発物の入った首輪を,自分の手で,自分の首につける。カチリ,とロックがかかる音。
「進行マニュアルはその棚です」青年が言った。「あと,冷蔵庫にお茶が——」
「ああ」
男は棚に手をかけた。マニュアルと書かれたクリアファイル。中身は——九時間前の一般常識クイズのものだ。使い物にならない。壁に書かれたルールを転記する必要がある。
「始めるまでに少し時間をくれ。ルールを把握する」
男は壁を閉めた。
こちら側では,十二人が顔を見合わせていた。元ゲームマスターの青年を含めて,十二人。青年の首には,ついさっきまで男がつけていた金属の輪がある。
「改めまして」笹倉が手を差し出した。「よろしくお願いします。——さて皆さん,グループ分けを決めましょうか」
高揚が,コンクリートの部屋に満ちた。
* * *
男はコンソールの前に座った。
モニターには十二の人影が映っている。笹倉が何かを仕切り,碓井が数字を確認し,桐生がチップを配り,三谷が微笑んでいる。園部がグループのメンバーと握手している。元ゲームマスターの青年は,緊張した面持ちで自分の首輪に触れている。
男はセブンスターに火をつけた。
換気扇はこちらの部屋にもある。煙が吸い込まれていく。男は目を細めてモニターを見つめた。九時間の議論には参加しなかったが,九時間のあいだ,壁際からすべてを聞いていた。
男は進行マニュアルのクリアファイルを開いた。一般常識クイズの問題用紙。「日本で一番高い山は?」。紙を裏返して白い面を出し,胸ポケットからペンを取り出すと,壁に書かれていたルールを思い出しながら,ゆっくりと書き始めた。
途中でペンが止まる。
モニターを見た。十二人が三つのグループに分かれて座っている。最初のラウンドの交渉が始まろうとしていた。ゲームをプレイする喜びと,命を賭ける恐怖が入り混じった表情。十二の顔に,一色が浮かんでいる。
男はペンを置いた。
タバコを吸い終えて,火を消し,立ち上がる。マニュアルを棚に戻す。
コンソールの上にあった鍵束を手に取り,出口のドアを開けた。非常階段。コンクリートの壁に囲まれた狭い階段を登ると鉄扉があり,鍵を使って開けると——外だった。雑居ビルの裏口。路地に出ると,夜明け前の空気が顔に当たる。
ポケットに手を入れて歩き出す。背後の雑居ビル,外からは何の音も聞こえなかった。
* * *
昼前に事務所に着くと,美馬が菓子パンを齧りながらテレビを見ていた。
「あれ,戸田さん。昨日どこ行ってたんすか。寒河江さんが探してましたよ」
「野暮用だ」
「あれですか,女ですか」
「うるせえぞ美馬」
戸田はソファに腰を下ろし,灰皿を引き寄せて最後の一本に火をつける。美馬がまた何か言ったが,聞いていない。
テレビでは昼のワイドショーが流れている。
コメンテーターが深刻な顔をしている。画面の隅に「速報」のテロップ。都内某所の雑居ビル地下で,複数の遺体が発見された。全員の首に爆発物とみられる金属製の装置が取り付けられていたが,起爆した形跡はない。現場には大量の模造紙と付箋とポーカーチップが散乱し,壁一面に何かのルールのようなものが書き込まれていた。
凶器は見つかっておらず,壁への書き込みに使用されたとみられるマーカー数本が,破損した状態で遺体の付近から回収されたという。
レポーターが中継している。ビルの前に黄色い規制線。
「唯一息があったのは三十代の女性で,搬送先の病院で意識を回復しています」
画面が切り替わる。
「女性は警察の聴取に対し,次のように話しているということです」
テロップが出た。
『ゲームマスターを決めるために仕方なかった』
美馬が菓子パンを咀嚼しながら画面を見ている。
「あちゃ,物騒っすね。——何すかゲームマスターって」
「知らね」
