中原が会社に行けなくなったのは,六月の半ばだった。
きっかけは特にない。あるいは全部がきっかけだったのかもしれない。IT企業の法人営業として五年。毎月の数字,謝罪のメール,謝罪のための謝罪のメール,エクセルの海,上司の叱責,クライアントの要望変更,変更に伴う再見積もり,再見積もりに伴う謝罪のメール。ある朝ベッドから起き上がれなくなり,次の日も起き上がれず,三日目に心療内科に這っていき,四日目から休職になった。診断書の病名欄には,読めない漢字の羅列が書いてあった。処方された薬の名前も読めなかった。読めないものが増えていく人生だと思った。
布団の中でYouTubeを見た。何を見たか覚えていない。猫。料理。ゲーム実況。都市伝説の朗読。切り抜き。また猫。同じ猫。親指で画面を流し続ける生活の中で,ひとつだけ妙に印象に残っている動画がある。高校生料理大会決勝のライブ配信。二年前にリアルタイムで始まった配信がまだ続いている。両選手ともまだ盛り付けに入っていない。同時接続者数は八十三万。コメント欄は異様な調理風景への突っ込みと,提出を求める声で埋まっていた。
終わらないものを見ていると安心した。終わらないということは,少なくとも今日は結末を見届ける義務がないということだ。中原は布団の中で親指と人差し指を動かし続けた。全身の中で,二本の指だけが会社員のままだった。
* * *
薬は,効いた。効きすぎた。
正確に言えば,処方された気分安定薬のうちのひとつが,中原の脳のどこかを必要以上に安定させた。結果としてベッドの上で三ヶ月間まったく安定していなかった行動力が,ある朝突然,噴水のように噴き出したのだ。
布団を蹴飛ばし,シャワーを浴び,財布とパスポートを掴んで成田に向かった。行き先など考えず,カウンターで一番安い国際線を訊き,片道切符を買った。出発まで四十分。搭乗ゲートに走りながら,休職届の延長手続きをしていないことに気づいたが,気にしなかった。気にしないことができた。薬のおかげ,薬は偉大だ。
飛行機は東南アジアのどこかに着いた。着いたのだから,そこがどこであれ,中原はそこにいた。空港の外に出ると湿度が顔を殴り,排気ガスと香辛料と花の腐ったような匂いが混ざって鼻を刺す。タクシーの運転手が何かを叫んでいた。一言もわからない。英語は通じそうだったが,中原の英語は法人営業メールの定型文しかなく,「Thank you for your arrow」と言ってしまう。
最初の一週間は良かった。何がどう良かったかを言語化するのは難しいが,中原の五年間が法人営業だったことを思えば,言語化できないことそのものが良かったのだ。数字にならない,報告書にならない,議事録にならない。ただ歩いて,食べて,見て,汗をかいて,夜になったら安い宿のベッドに倒れ込む。世界が数値化されていない。エクセルの枠線がない。ここでは何ものも前年比で評価されない。
良かった。
良かったのだ。
* * *
八日目の午後二時,路地裏で後ろから肩を掴まれた。
振り向いたら鞄がなくなっていた。何が起きたのか理解するのに三秒かかり,三秒後にはもう路地の向こうに人影すらなかった。鞄の中には財布,パスポート,スマートフォン,常備薬,すべてが入っていた。首から提げていたポーチに入っていた予備の現金は,ポーチごと鞄に入れ直していた。昨日の夜,ホテルのフロントで「貴重品はまとめておけ」と身振りで言われたからだ。まとめた結果,まとめて失った。
残ったのは,着ている服と,ポケットに入っていたレシート三枚と,歯に挟まった昼飯のパクチー。
在外公館に行かなければならない。だがここからどの方向にあるのかわからない。地図はスマートフォンの中,人に訊こうにも言葉が通じない。英語を話せそうな人間を探して大通りに出たが,中原の英語力で「日本大使館はどこですか」が言えるかどうかは怪しく,実際に口から出たのは「Where is Japan House」であり,通りがかりの若い男は首を傾げて立ち去った。
日没。
中原は公園のベンチに座っていた。金がない。電話がない。パスポートがない。言葉がない。ポケットのレシートはこの国の文字で何かが印刷されているが,読めない。ここにいる自分の存在を証明するものが何もない。中原拓也は,社会的に蒸発した。
考えてみれば,日本でもそうだった。布団の中でYouTubeを見ているだけの人間は,社会的には存在していないに等しい。違いがあるとすれば,あちらには布団があり,こちらにはベンチがあるということだけ。
ベンチの隣に,男が座った。年齢不詳。ボロボロのジャケットを着て,ビニール袋を枕にしている。男は中原をちらりと見て,何か言った。聞き取れなかった。男はもう一度言い,中原が首を振ると,肩をすくめて目を閉じた。
公園のあちこちに,同じような人間が転がっていた。ベンチの上。木の根元。滑り台の下。みな何かしらの荷物を体に巻きつけて,もうすぐ来る夜に備えている。
中原はベンチに横になった。薬は切れ始めていた。あの噴水のような行動力がゆっくりとしぼんでいく代わりに,何か別のものが底から浮き上がってきた。いつもの「なんかいろいろ無理」が戻ってくるかと身構えたが,やってきたのはそれとも違った。もっと乾いた,硬いもの。生卵をフライパンの上に落としたら,火が強すぎてじゅっと固まる,あの感じ。精神が熱凝固したのだ,と中原はぼんやり思った。柔らかい絶望がうまく絶望できないまま固形になって,腹の底に沈んでいる。
その固形物の表面に,奇妙な思いつきがぽつりと浮かんだ。
——夢で勉強すればいいのでは。
何を,と問い返す自分がいない。いつもなら「何をバカなことを」と打ち消すもうひとりの中原がいるはずだが,そいつは薬と一緒に鞄の中だった。打ち消す自分がいなければ,バカな思いつきは思いついたまま転がっていく。
言葉が通じない。翻訳アプリはない。教科書もない。教師もいない。ならば脳が夜のあいだに勝手にやってくれないだろうか。日中に聞いた音を,夢の中で分類し,整理し,意味と結びつけてくれないだろうか。睡眠学習。どこかで聞いたことがある。効果があるという論文もないという論文もあった気がする。だが中原はいま,論文を検索する手段を持っていない。持っていないことは,この場合,好都合だった。
中原は目を閉じた。枕は無く,布団も無く,ベンチの硬い木が後頭部を押している。この十日間で最も浅い眠りだった。
夢を,見た。
* * *
翌朝から,中原の生活は単純になった。
起きる。公園の水道で顔を洗う。隣のベンチの男——後にファリドという名だと判明する——に身振りで挨拶する。公園の周辺を歩き,人が話しているのを聞く。市場。屋台。路上の喧嘩。子供の遊び。何を言っているかはわからない。わからないまま,音だけを耳に流し込む。
昼は物乞いをした。やり方はファリドたちに教わった。教わった,というのは正確ではない。ファリドが交差点で手を出しているのを見て,隣に立って同じことをした。コインが手のひらに落ちる感覚を知った。最初の一枚で水を買い,二枚目でパンを買った。
夜になるとベンチに横になり,目を閉じ,夢を見る。
夢の中で,日中に聞いた音の断片が渦を巻いていた。市場のおばさんの怒鳴り声。屋台の男の呼び込み。子供たちの笑い声に混じる短い叫び。それらの音が,夢の中ではゆっくりと再生された。引き伸ばされ,分解され,音の粒子になってばらけていく。そこから中原の脳が何かを組み立てている。何を組み立てているかは,中原自身にもわからなかった。
三日目の夢で,音の断片が初めて「形」を持った。
中原の夢に小さなテーブルが現れ,その上に音が並べられている。左に置かれた音と右に置かれた音が,見えない糸で結ばれている。糸を辿ると別の音に繋がり,そこからまた別の糸が伸びている。中原は夢の中でその糸を手繰った。手繰った先に,意味はなかった。意味の代わりに,何かもっと手前のものがあった。構造だ。この音はあの音と似ていて,あの音はこの音と遠い。距離と方向の地図。それが夢のテーブルの上で,少しずつ精緻になっていく。
一週間目。
中原は夢の中で声を出した。
現実の声帯は動いていなかったかもしれない。あるいは動いていたかもしれない。隣のベンチのファリドが翌朝「お前は夜うるさい」という顔をしていたから,たぶん動いていた。
夢の中で出た声は,現地語ではなかった。
中原はそのことに,最初は気づかなかった。気づいたのは十日目の朝,目を覚まして,ファリドに向かって何かを言った瞬間だった。それは「おはよう」でもなく,現地語の挨拶でもなかった。聞いたことのない,一音節の短い音だった。
ファリドが目を丸くした。
そして——頷いた。
* * *
ここから先のことを,中原は後年,各国のメディアや研究者に繰り返し語ることになるのだが,何度語っても本人にすらうまく説明できない部分がある。
夢の中で構築された言語は,現地語ではなかった。日本語でもなかった。英語でも中国語でもアラビア語でもスワヒリ語でもなかった。地球上のいかなる言語にも属さない,まったく新しい体系だった。
おかしな話だ。中原は現地語を学ぼうとしていた。日中に聞いた現地の音を素材にしていたはずだった。なのに脳が夜間に組み立てたのは,素材とは似ても似つかない別のものだった。大工に犬小屋を頼んだら,犬小屋ではない何かが建っていた。しかし犬は気に入っている。
では何が建ったのか。
中原の脳は,現地語の音声データを受け取り,そこから「音の距離」と「使用頻度」と「文脈の共起パターン」を抽出していた。ここまでは通常の言語習得と変わらない。違ったのは,脳がそのデータを現地語の文法に沿って再構築する代わりに,ゼロから最適化したことだ。日中に集めた素材を「お手本通り」に組み上げるのではなく,素材から抽出した情報構造だけを抜き取り,もっとも効率的な形に鋳直した。設計図を模写するのではなく,設計思想だけを盗んで,より合理的な建物を建てた。
結果として生まれた言語は——わかりやすく,書きやすく,発声しやすく,圧倒的な情報量を持っていた。
音素は人間の口腔で無理なく発音でき,かつ聞き間違いが起きにくい組み合わせだけが選ばれている。文法は規則に例外がない。膠着語の論理性と孤立語の簡潔さを兼ね備え,曖昧性がゼロだった――それはすなわち,聞いた瞬間に意味がひとつに定まるということだ。日本語で「やばい」は文脈次第で十七通りの意味を持つが,この言語では十七の概念に十七の異なる音が割り当てられている。迷う余地がない。
ファリドは三日でこの言語を覚えた。ファリドの隣のベンチにいた女——名前は最後まで知らなかった——は二日で覚えた。公園の炊き出しに来ていた老人は一日半。屋台の兄ちゃんは半日。路地裏で遊んでいた子供たちは,二時間で流暢に喋り始めた。
覚えるのが速すぎる。
自然言語の習得には何年もかかる。最も「簡単」とされる言語ですら,基礎的な会話ができるまでに数百時間を要する。なのにこの言語は数時間で「わかる」。聞いた瞬間に構造が見て取れる。単語を覚えるのではなく,規則を一つ理解すれば,その規則が例外なく全体に適用されるため,聞いたことのない単語すら文脈から一意に復元できる。覚えるのではない。気づくのだ。
言語学の用語を借りれば,「学習可能性」が異常に高い。自然言語が迷路だとすれば,この言語は一本道だった。一本道であるがゆえに,迷う必要がなく,迷う必要がないがゆえに,速い。
「強すぎる」と,後にMITの言語学者が論文に書くことになる。「この言語は生態系における外来種に似ている。既存の言語と同じニッチを占め,かつ既存の言語より効率的であるため,接触した話者は短期間で乗り換える。言語的侵略種とでも呼ぶべきものだ」
中原はそんなことを知らなかった。知らないまま,公園のベンチで,ファリドと話していた。初めてまともに通じた会話の相手が,異国のホームレスだった。
「腹が減った」と中原は言った。夢の言葉で。
「おれもだ」とファリドは答えた。夢の言葉で。
通じている。通じるということがこんなに温かいとは知らなかった。中原は少し泣きそうになり,泣かなかった。泣くほどの水分は,体内に持ち合わせていなかった。
* * *
言語が公園の外に出たのは,中原が到着してから三週間目のことだった。
屋台の兄ちゃんが使い始めた。客とのやり取りに混ぜた。最初は現地語に夢言語の単語を混ぜる程度だったが,一週間もすると客のほうが夢言語で注文するようになった。
「二番と五番」
「スープ多め」
「辛くしないで」
注文の言葉が短くなった。現地語では三語かかっていたものがひとことで済む。屋台の回転率が上がった。向かいの屋台が真似した。通りの反対側にも広がった。二ヶ月目に市場全体が夢言語になった。
三ヶ月目に,旅行者が持ち帰った。
SNSの動画が最初だった。「東南アジアの路上で生まれた謎の言語。二時間で話せるようになる」。動画は四十八時間で二百万回再生された。コメント欄で言語の規則を解説する者が現れ,その解説動画がさらに拡散し,一週間後にはRedditに専用のサブレディットができた。
言語学者が反応した。最初は懐疑的だった。「人工言語なら過去にいくらでもある。エスペラントが百年以上前に同じことを試みて失敗している」。しかし調べるほどに,顔色が変わった。エスペラントは学習に数ヶ月かかる。この言語は数時間だ。エスペラントはヨーロッパ語の構造を下敷きにしている。この言語はどの言語族にも属さない。エスペラントは約二百万人の話者を百年かけて獲得した。この言語は三ヶ月で五百万人に達していた。
国連が動いた。ユネスコの言語多様性部門が調査チームを派遣した。報告書のタイトルは「東南アジアにおける未分類言語の急速な伝播に関する予備調査」。結論部分にはこうあった。「本言語の習得速度は,既知のいかなる自然言語・人工言語をも大幅に上回る。これは言語学の既存理論では説明が困難であり,認知科学との学際的研究が急務である」。
急務である。官僚と学者に共通する言語体系のひとつだ。急務であると書いた報告書が半年後に読まれれば良いほうで,一年後に委員会が組成され,二年後に予算がつく。しかしこの言語は委員会の速度では動かなかった。
四ヶ月目。一億人。
名前がついた。
各国でばらばらに呼ばれていたその言語に,いつしかひとつの名前が定着した。「寝言」。日本のメディアが「路上生活者のベンチで眠っていた日本人が夢の中で作った言語」と報じたのが最初で,冗談半分で「寝言語」と呼ばれ,やがて縮まって「寝言」になった。
発明者の名も知れ渡った。中原拓也。IT企業の営業職。休職中。東南アジアのどこかの公園のベンチで,パスポートも財布も持たずにホームレスをしている。在外公館の職員が彼を見つけたとき,中原はファリドと路上に座ってスイカを食べていた。職員が日本語で話しかけると,中原は二秒ほど間を置いてから「ああ」と言った。日本語が出てくるのに時間がかかったらしい。
「中原拓也さんですね。お迎えに上がりました」
「……はい」
「パスポートの再発行手続きは,こちらで進めております」
「……はあ」
中原はスイカの種を吐き出した。ファリドが何か言った。寝言で。職員には聞き取れなかったが,中原は笑った。異国の路上で,母語より先に笑いが出る。それが四ヶ月の成果だった。
* * *
帰国までの記憶を,中原はほとんど持っていない。在外公館の応接室,成田の蛍光灯,向けられるカメラレンズ,区役所と銀行と警察署の窓口,会社の人事部——断片はあるが,順序がわからない。中原の脳は,失くした身分の再発行という煩雑な出来事を処理しきれず,ところどころを白く飛ばしていた。
記憶が最初にまともな輪郭を取り戻すのは,クリニックの待合室。暇つぶしに開いた雑誌がフックになった。主治医の山崎は中原を診察室に通すと,カルテをめくりながら穏やかに訊いた。
「お変わり,ありませんでしたか」
大いに。何から話せばいいかわからないほど,あった。躁で飛行機に乗ったこと。ひったくりに遭ったこと。公園で寝泊まりしたこと。夢の中で言語を構築したこと。その言語が世界中に広まったこと。すべてがあった。
中原は口を開きかけた。
寝言なら——中原自身が夢の中で鋳造したあの言語なら——間違いなく伝わる。噴水のような躁と,熱凝固した絶望と,ベンチの硬さと,ファリドのスイカと,夕焼けの色と,通じた瞬間の温かさ。歪みのない,取りこぼしのない,中原の四ヶ月そのものが。
寝言とはそういう言語だ。曖昧さがない。聞けばわかる。
わかるとは知るということであり,知るとは体験することにほぼ等しい。
中原は口を閉じた。
この四ヶ月を寝言で語ったら,山崎は中原の四ヶ月を体験する。
山崎先生は何人も患者を抱えている。
「なんか」
日本語で。
「いろいろ,無理で」
山崎はカルテに視線を落とした。
「わかりました。お薬,前と同じでいいですか」
おそらく,わかっていない。何ひとつ伝わっていない。「なんかいろいろ無理」の九文字は,中原の四ヶ月を何も正確に伝えていない。
でも,と中原は思った。「わかりました」が本当は何もわかっていない言葉であることを,中原は知っている。山崎も知っている。お互いに知っていて,そのうえで使っている。寝言にはそういう語彙がない。わかるか,わからないか。寝言には「だいたいわかった」がない。「なんとなく察した」がない。「今はそれ以上訊かないでおくね」がない。
日本語の「わかりました」は,理解を意味しない。あなたの話をここで受け止めましたよ,というただの合図だ。中身を問わない。踏み込まない。その踏み込まなさが,いまの中原にはありがたかった。
アパートに帰ると,ベッドがある。四ヶ月前と同じベッド。布団を被ると柔らかかった。ベンチとは違う。ベンチのほうが夢は鮮明だったが,背中は布団のほうがいい。
スマートフォンの電源を入れ,YouTubeを開いた。
高校生料理大会決勝のライブ配信のコメント欄は三つの言語で埋まっていた。日本語と英語と寝言。三つの言語が入り混じっている。どの言語でも,同じことを言っていた。
——はよ出せ。
中原はそんなコメントの海の底に,日本語で,打った。
「まだやってて安心した」
何も伝わらない八文字だった。
中原は画面を見ながら,少しだけ笑った。伝わらないのも悪くない,と。
中原はまだ,何も見届けたくなかった。
だから月曜日に届いた上司からのメール——「体調いかがですか。無事と聞きまして安心しました。復帰の目処が立ちましたらご連絡ください」——にも,日本語で返した。
「ご心配,ご迷惑おかけしております。体調は快方に向かっておりますが,もうしばらくお時間をいただければ幸いです。ご迷惑をおかけし申し訳ございません」
五年間で最も流暢に書けた法人営業メールだった。何も言っていない。何も伝えていない。快方に向かっているかどうかは不明であり,もうしばらくがいつまでかも未定であり,申し訳なく思っているかも正直わからない。
だがこのメールは承認される。中原はそれを確信していた。承認されるために書かれた文章は,理解されるために書かれた文章とは別のものだ。そして世の中の大半のメールは,理解ではなく承認を求めている。
送信ボタン,既読。十五秒後に返信が来た。
「承知しました。無理なさらず」
六文字。
何も伝わっていないからこそ書ける「無理なさらず」を,中原はベッドの中で,布団を顎まで引き上げて,しばらく眺めていた。
