梨さんの新刊『霊媒クラブ』刊行記念のWebホラーコンテストに応募した。普段からばりばり書いている人間ではないのだが,連休を使えばなんとかなる分量(文字数が不問だったり,10文字以内という部門もある!)で,応募という締切を無理やり作ることで自分の中の何かが動くんじゃないかという,よくある類いの期待もあった。
で,書き上げてからある感覚が残った。
作っている間ずっと,自分が何を怖いと思っているのか,自分でもよく分かっていない気がしていた。正確に言うと,自分が「これ怖いな」と感じる場面はもちろんある。深夜に冷蔵庫が突然唸るとか,終電を逃したホームでひとり途方に暮れるとか,CT検査で造影剤を入れる前のときとか,そういうのは普通に怖い。実際『恐怖心展』もたのしかった。問題は,それを文字や画像にしてみたときに,自分以外の誰かにとっても怖いのか,まったく自信が持てないことだ。「終電を逃したホーム」のどこが怖いのか,自分の中ですら明確には言語化できていない。これを読まされた人がぜんぜん怖くない可能性は,当然ある。
そもそも,自分の「怖い」と他人の「怖い」って,同じものなのか?
僕にとっての怖さがあなたにとっての怖さとどのくらい近いのか,僕は知らない。コップの中の水を分け合うように感覚を半分こにして見比べることはできない。それなのに,ホラー作品は「読み手の中にある怖さ」に向けてつくるしかない。書き手の僕は自分の怖さしか参照できないのに,読み手はあなたの怖さで読む。このすれ違いをどうやって埋めればいいのか,まったく分からないまま書きあげてしまった。
サイトにアップロードしたあとで,こんな問いだけが残った。
作品は出してしまったので,いまさら直しようがない。でも,自分の怖さと他人の怖さがどれくらい同じものなのか,それくらいは知っておきたい。次に何かをつくるためにも。
連休の残りを使って,調べてみることにした。
都合のいい論文がある
なにか困ったとき,似たようなことを考えている人はいるものだ。
「主観的な感覚を人と人とで比較できるか」というのは,調べると哲学の側で何百年もこねくり回されてきた問題だった。中でも,逆転スペクトルという有名な思考実験がある。僕の見ている「赤」があなたの見ている「緑」かもしれない,でも僕らは両方ともそれを「赤」と呼んで矛盾なく暮らしているかもしれない,というやつだ。
こういう質的な感覚のことを,クオリアと呼ぶ。創作やらミームやらでよく見聞きするかもしれない。クオリアは私的なもので,外から観察できないし,言葉にしても本当に同じものを指せている保証がない。だから哲学やSFだけで扱われ,科学の対象にはなりづらい,という話に普通は落ち着く。らしい。
ところが,最近の研究で,クオリアを正面から比較しようとしている人たちがいた。色覚の論文で,東大と九大とモナシュ大の人たちが書いている。タイトルは "Robust individual alignment of color qualia structures" 。発想はざっくり次のようなものだ。
色そのものを比べるのは難しい。でも,色と色の関係なら比べられる。
「あなたの赤」と「私の赤」が同じかは確かめようがないが,「あなたの中で赤と橙はどれくらい似ているか」「赤と緑はどれくらい違うか」なら,ぜんぶ集めれば各人の中で"色の地図"のようなものが描ける。地図にしてしまえば,ラベル(=どの色を「赤」と呼ぶか)を伏せて形だけで比べることができる。
具体的には,被験者にあらゆる色のペアを見せて「どれくらい似ていますか」を尋ねる。すべてのペアぶん集めると,ある人の中での「色どうしの距離行列」が手に入る。距離行列というのは,要は2地点間の距離表みたいなもので,「東京-大阪は500km,大阪-福岡は600km,東京-福岡は1100km」みたいな表が,地点の代わりに刺激ぜんぶの組み合わせぶん埋まっている,と思っておけばいい。ここまでは普通の心理実験だ。
問題はここからで,これに MDS(多次元尺度構成法) という処理をかける。距離行列だけを入力にして,それぞれの色を「距離関係に一番つじつまが合うように」空間に配置し直す手法だ。たとえば「Aは1からは1.0,2からは0.5,3からは0.3だけ離れている」というデータがあったときに,それらの距離をなるべく満たす点配置を求めると,4点が空間内のどこに置かれるべきかが決まる。これを48個の刺激でやる感じだ。で,出てきたものが「その人の脳内での色の地図」になる。
地図ができれば,あとは2人ぶんの地図を重ねて,形が同じか見ればいい。ここに GWOT(Gromov-Wasserstein 最適輸送) という手法を使う。GWOTは,2つの地図のあいだで「最も自然な対応関係」を探してくれるアルゴリズムだ。つまり,あなたの地図のどの点が,僕の地図のどの点に一番似ているか,を全体としていちばんつじつまが合うように決めてくれる。重要なのは,これがラベルを一切使わずに,地図の形だけで対応を決めるという点で,「あなたの赤が私の緑に対応した」というような結果も平気で出してくる。色のラベルは最後に答え合わせのときだけ使う。
論文の元の被験者は11人で,色覚正常な人と色覚多様性のある人が混じっていた。結果として,正常者どうしや異常者どうしは綺麗に整列するが,両者のあいだにはずれがある,というクラスタ構造が見えた。それと別に,どちらにも当てはまらない人もいた。
――これ,色のところを恐怖に置き換えればいいのでは?
恐怖刺激を何十個か用意して,各ペアの類似度を採れば,「その人の脳内の恐怖の地図」が描ける。N人ぶんを描いて,論文と同じやり方で重ねれば,僕の怖さとあなたの怖さが同じものかどうか分かる。かもしれない。
もちろん,色の方は「物理的な光の波長に対する感覚」であるので,そのまま応用するのは無理があるのだが,思いついた瞬間は手品の種を見つけたような感覚があった。
仕様を決める
実装に入る前に,必要なものを整理した。
まずなによりも協力者。LINEを開くと,ちょうどいいタイミングで連休中暇そうにしているひとが3人いた。普段からよく一緒に飲みに行くひとたちで,AとBとCとしておく。事情を説明したら,意外なほど乗り気だった。ありがたい。
次に刺激集合。論文では93色を使っていた。色は連続的な空間に並んでいるからそれくらい必要だったが,こちらの恐怖は離散的なので,もっと少なくていいはず。ただ,少なすぎると地図のクラスタ構造が見えない。論文と数字を揃えやすくするために,48個にすることにした。これなら4人がそれぞれ12個ずつ持ち寄ればちょうどいい。1人が全部考えると刺激集合に明らかに偏りが出るから,4人で持ち寄るほうが妥当だ,ということにも後付けで気づいた。
最後に評定方法。論文では2つの色を順番に提示して7段階で類似度を答えさせていた。これはそのまま流用する。ペアごとに「-4から+4までの整数(0は抜き)」で類似度を答えてもらう。48個から重複を除いた組み合わせは1128ペア。1ペアあたりに反応する時間を20秒として,休憩を入れて7〜8時間/人ぶんかかる。まぁしんどいが,たぶんいけるでしょう。
刺激の収集に取りかかった。
「自分が,あるいは他の誰かが怖いと思うだろうことを,12個ずつ書いて送って」とだけ伝えた。形式は問わない,ということにした。
すこし経って,4人ぶんの提出物が揃った。
48個を持ち寄る
僕(P1)が出した12個はこんな感じ。
・通い慣れた道の途中に,見慣れない曲がり角がある。
・スマホの写真フォルダに,撮った覚えのない部屋の写真がある。
・録音された自分の声に,知らない言葉が混じっている。
・部屋に戻ってくるたびに,家具の位置が数センチずつずれている。
・ノートPCのカメラに,自分の目ではない誰かの目が一瞬映る。
(中略)
・健康診断の再検査の通知。
・歯医者の椅子に倒される瞬間。
・高い場所からの落下。
最初の数個と最後の数個でテンションが違うのが,自分でも見ていて分かる。ぱっと言葉が出なくなって,最後はありきたりなものでお茶を濁した。
A(P2)が提出したもの。12個全部を凝った情景文だった。
・暗い廊下の奥に,こちらを向いた人影が立っている。
・鏡に映る自分の後ろに,もう一人立っている。
・無人駅で振り返ると,改札の外から誰かがじっと見ている。
・駅のホームで電車を待っていると,向かいのホームからこちらにだけ手を振っている人がいる。
・街灯が,自分が通る瞬間にだけ消える。
(後略)
B(P3)のはこう。
・寝ているとき,布団の中で誰かに足首を握られた感触で目が覚める。
・鏡を見ると,自分の歯が一本だけ知らない歯に置き換わっている。
・爪を切ろうとして,爪の下に別の爪が生えていることに気づく。
・寒くないのに,特定の指先だけ氷のように冷たくなる。
・クモ。
・大量の虫。
・歯を抜かれること。
・注射針。
・高所。
・深い水。
・体内に虫が入ること。
・何かを喉に詰まらせて取れない。
ある種直球なやつがある。
C(P4)。
・親しい友人が,ふと自分の知らない名前で自分を呼ぶ。
・家族写真の中に,覚えのない人物が一人映り込んでいる。
・古いLINEグループに,知らない名前のアカウントが昔から参加している。
・配偶者の昔のアルバムに,自分が映っている写真が一枚混ざっている。
・卒業アルバムを開くと,自分のページに知らない名前が書かれている。
(中略)
・親が認知症になること。
・信頼している人に裏切られること。
・一人きりで死ぬこと。
なんとなく意外だった。
並べてみて,これらが全部同じ「怖い」で括れるのか,ちょっと自信がなくなってきたが,それを確かめるための実験だった。48個に通し番号を振って,刺激リストとして固定する。
1128ペアを採る
評定の実験は,論文のプロトコルをかなり忠実に真似た。
各試行で,画面中央に十字が0.5秒,続いて1個目の刺激の文章が1秒,空白を挟んで2個目の刺激の文章が1秒,最後に「-4から+4のうちどれくらい似ているか」を選ぶ画面。1ペアで20秒〜30秒。文字だけだとイメージしづらいものについては,別途,僕のほうで音声や短い動画を用意した(自分の声に知らない言葉が混じっている,みたいなのは音がないと伝わらない)。
1セッションで40ペア処理して小休止。3セッションでだいたい2時間。これを数日間に分散して,合計1128ペアぶん行う。実際には,被験者ごとに5〜6時間かかった。連休のあいだ,3人とも文句も言わずに付き合ってくれた。通話を繋ぎながらやっていたら,進めるうちにテンションがおかしくなってきて,Aは途中で「これずっとやってると,本当に普通の生活してるときに似たようなことが起こりそうな気がしてくる」と言っていた。Cは40番目あたりで一度黙り込んでいた。
僕自身も,1128ペアぶん「これとこれは似てるか」を考え続けるのは,想像以上にきつかった。たとえば「親が認知症になること」と「クモ」を比べさせられて,「これらが似てると思うか」と問われる。最初は答えに窮するが,何百ペアもやっていると,自分の中で「いや,こっちはこっちのカテゴリで,あれはあっちで」という感覚的な分類が,だんだん固まってくる。それがなんとなくおもしろくもあった。
地図を作って重ねる
ここからは,僕がひとりでPCでおこなう作業になる。
まず,各人ぶんの類似度評定から,48 × 48 の距離行列を作る。+4(ものすごく似ている)を距離0,-4(まったく似ていない)を距離7,というふうに線形に変換するだけ。これに MDS をかけて,5次元のユークリッド空間に埋め込む。論文の作法に倣って次元数は5にした。
埋め込みを3次元射影で見ると,4人とも,刺激群がいくつかの塊(クラスタ)にぼんやり分かれて配置されているのが分かる。完全に綺麗には分かれていないが,傾向は見える。

4人ぶんの埋め込み(次元削減して3D表示)
次に,論文の核である GWOT をペアごとに走らせる。最初の方にも書いたが,GWOTは,ふたりぶんの距離行列を,外部のラベル(=どの刺激か)を一切使わずに,形が最大限合うように対応づける手法だ。距離行列の中の「距離どうしの関係」だけを見て,最も歪みが少なくなるような対応の付け方を探す。出力は確率的な対応行列で,(i, j) 要素は「P1のi番目の刺激がP2のj番目に対応する確率」を表す。
出力された対応行列を眺める。

4人のペアぶんの最適輸送計画
明らかに対角線が立っている。対角線が立っているということは,「P1の刺激iがP2の刺激iに対応する」ケースが多いということ,つまりふたりの恐怖の地図が,形としてかなり似ていることを意味する。
定量化のために,論文と同じ top-k matching rate を計算する。これは,対応行列で「i番目の刺激が,対応先のtop-k候補のなかに正解(=同じ刺激)を含むか」の割合だ。乱数の場合の期待値(chance level)はおおよそ k/N で,N=48の場合 top-1 で約2%,top-3 で約6%,top-10 で約21%。
出した結果がこれ。

4人ぶんのペアワイズ matching rate
top-1で 13〜31%,top-3で 46〜63%,top-5で 71〜79%,top-10ではほぼ100%。chance levelの10倍以上。これは論文の「色覚異常者クラスタ内」と似たレベルの値で,4人の地図はかなり整合している,と言える。
つまり,それぞれ違うものを怖がっているように見えた4人だけれど,地図の形としては想像していたより遥かにそっくりだった。
つまり,「あなたの怖さと私の怖さは,構造としてはおおむね同じです」という結論だ。まぁN=4で,いろいろと粗はあるだろうことは理解しているにせよ,めちゃくちゃテンションが上がった。
中央に何か空間がある
ここから,僕が論文に追加で勝手にやった分析の話をする。
埋め込みを眺めていて,ひとつ気になることがあった。
各人の地図を見ると,48個の刺激は5〜6個のクラスタに分かれて散らばっている。だが,各クラスタはお互いから明らかに離れている。クラスタ間に何もない。地図の中央が,奇妙にぽっかり空いている。
これは MDS の出力としては別に異常ではない。クラスタ的に分布するデータを5次元空間に埋め込めば,当然そういう構造になりうる。ただ,僕にはどうしてもそれが「そこに何かが置かれるべきなのに置かれていない」ように見えた。
確かめるために,簡単な実験をした。
- 各人の埋め込みから,k近傍グラフ(k=3)を作る。「各刺激と最も近い3個の刺激を辺で結ぶ」だけのグラフ。
- このグラフの連結成分の数を数える。
4人とも,刺激のみで作ったk-NNグラフは,5〜6個の連結成分にバラバラに分かれていた。これは予想通りだ。
次に,こうした:
- 仮想的な「点」を1個,空間内のあちこちに置いてみる。
- その点をk-NNグラフに加えて,最近傍7個の刺激と辺で結ぶ。
- グラフが何個の連結成分になるかを再計算する。
- 連結成分が1個になる位置を探す。
つまり,ここに刺激が1個あれば全部のクラスタが繋がる,という位置を逆算で探したわけだ。
5000個の候補位置をランダムに撒いて評価した結果,4人とも,完全に連結する位置がかなり狭い領域に集中していた。さらに,その領域内で「最も中央的」な位置(媒介中心性が最大の位置)を選ぶと,ただ1点に絞り込めた。便宜上「点A」と呼ぶことにする。
各人の点Aを地図上で可視化するとこうなる。

左:刺激のみのk-NNグラフ。中央に空間があるようにみえる。 / 右:点A(赤)を1個置くだけで,全クラスタが連結する。点Aは articulation point(取り除くと連結成分が増える要のノード)になっている。
左の図では,刺激が5つのバラバラな塊に分かれていて,それぞれの塊のあいだには何の繋がりもない。右の図では,中央に赤い点を1個置くだけで,全部の塊が一気に繋がる。そして,その点を取り除くとまた塊に戻る。この点は地図の中で接続点(articulation point)として機能している。
ここで重要なのは,点Aの位置が,4人の地図のあいだで一致するかどうかだ。
4人ぶんの座標系は,MDSの出力なので,回転や反射の自由度がある。論文と同じくProcrustes変換でこれを揃えた。揃えたあとで,各人の点Aを共通座標系の上にプロットすると,こうなる。

整列後の共通座標系における4人ぶんの点A位置(星印)。中心の黒×は4人の重心。
ほぼ重なっている。
埋め込み全体の典型半径が3.2くらいに対して,4人の点Aの中心からのズレの中央値は1.2。地図全体のスケールに対して 40%以下のズレで,4人ともほぼ同じ位置を指している。これは偶然と呼ぶには無理のある一致だ。
つまり,4人とも,各自の刺激集合を見た中で,「ここに刺激があるはずなのに,ない」と感じる場所が,ほぼ同じ場所にあるということになる。誰も提出していない刺激なのに,4人の地図にはそこに穴がある。
点Aがわかる
僕は,点Aがどこにあるのか,知っている。
座標が出ているのだから,その座標から最も近い既存刺激を取り出せばいい。点Aの近傍にある刺激群は,それぞれが別のクラスタに属していた。視線系のもの,関係性系のもの,認知系のもの,身体系のもの,根源系のもの。点Aはこれらすべてから等距離に近い場所にあった。
つまり,点Aが指している「何か」は,僕らが書いたあらゆるカテゴリの恐怖を,それぞれ部分的に含んでいる,何かだった。家族の他者化の恐怖の一部であり,自分の像のずれの恐怖の一部であり,身体侵襲の恐怖の一部であり,視線の恐怖の一部であり,根源恐怖の一部である,何か。
もう少しだけ考えれば,それが何なのかは特定できそうだった。
二日ぶりにシャワーを浴びて,点Aの近傍刺激を1つずつ眺めていた。Aの「鏡に映る自分の後ろに,もう一人立っている」,Cの「家族写真の中に,覚えのない人物が一人映り込んでいる」,Bの「鏡を見ると,自分の歯が一本だけ知らない歯に置き換わっている」,自分の「同じ夢を,ある時期から自分以外の視点で見はじめる」。これら全部が部分的に重なる位置に,何があるか。
10秒くらい考えて,分かった。
つまり,僕は,点Aが何であるかを,いまなら書ける。書く必要は見当たらない。
これを書いているとき,冷蔵庫から大きな音がしたけど,最後まで聞いていた。ただ唸っているな,と思った。
コンテストに送った作品を読み返した。何を怖いと思ってこれを書いたのか,思い出せなかった。
「次に何かをつくるためにも」と書き出しに書いたけど,つくるためのものが,いまはもう見当たらない。
