生もの

すべてのきっかけは,雨の日のファミレスだった。

窓ガラスを叩く水滴をぼんやりと眺めていたとき,向かいに座っていた友人が「光の速さって知ってるか」と唐突に切り出した。彼は物理学科の院生で,身の回りのことよりも,我々を取り巻く世界のことを話したがる。秒速約三十万キロメートル。この時分,そんな数字は小学生でも知っている。私が気のない相槌を打つと,彼はぬるくなったコーヒーを揺らしながら,薄い唇を歪めて笑った。

「そう,光は速い。でも,無限じゃない。ここにあるコーヒーカップに照明の光が当たり,反射して,おれの網膜に届くまでに,ほんの僅かだけど時間がかかる。さらに網膜が光を電気信号に変換し,視神経を通って脳の後ろ側に届き,脳がそれを『映像』として処理するまでにも時間がかかる」

彼は五本の指を合わせる。

「つまり,おれやお前がいま見ている『現在』は,常にコンマ数秒前の『過去』だ。世界は,いつだって生放送じゃなくて再放送ってわけ」

その言葉を聞いた瞬間,私の世界に薄い膜が張った。友人が口を動かして笑っている。だが,その笑顔はもう終わっているのだ。私の脳が「笑った」と認識したときには,彼の顔の筋肉は既に次の形状へと移行し始めている。世界は,常に遅れてやってくる。雷が光ってから音が遅れて聞こえるように,私の視界もまた,事実から決定的に遅延している。その事実に気づいてから,気づいてしまってから,私は「現在」を見失った。

生活が急速に色を失っていく。恋人が愛を囁いてくれても,私の耳に届き,脳が理解したときには,心はもうその言葉を通り過ぎている。上司が怒鳴り散らしていても,それは過去の残響に過ぎない。私は常に,世界の死骸を見せられている。スーパーに並ぶ刺身がどれもこれも数秒前に死んだものだと知らされたような,生理的な気味の悪さ。

じれったい。私は「いま」に触れたいのに。神経の伝達速度という泥濘を排して,加工も編集もされていない,剥き出しの「現在」をこの目で見たいのに。

ネットの海を漂い,怪しげな論文や都市伝説の掲示板を渡り歩いた末に,私はあるクリニックに辿り着いた。雑居ビルの三階。「視覚情報研究所」という,何のひねりもないプラスチックの看板がかかっている。隣は雀荘で,向かいは消費者金融だった。ドアを開けると,消毒液と古本の混ざったような匂い。受付には誰もおらず,呼び鈴の代わりに「御用の方はボタンを」と書かれた札と,バスの降車ボタンが置いてあった。壁に貼られたポスターには「鼓膜再建」「ネオインプラント」の文字。視覚以外にも手広くやっているらしい。

ボタンを押すと,奥から白衣を着た男が現れた。年齢の程度は分からない。肌は蝋のように白く,眼球だけが異様に黒い。私は事情を話した。光の遅延,神経のラグ,過去しか見えないことへの焦燥。男は私の話を,まるで天気の世間話でも聞くように,無感動に聞いていた。

「ようある悩みやね」

男は事もなげに言った。

「いまの人はみぃんな回線速度を気にしはる。ラグが許せなくなる,一種の現代病やな」

「治せますか」

「治すっていうよか,改造になりますねぇ」

男は引き出しから一枚のペラ紙を取り出した。同意書だ。そこには『視覚野直結バイパス手術』と書かれていた。

「ふつう,視覚情報は網膜から視神経,外側膝状体,視覚野っちゅーとこへとへとリレーされて,そこで色や形,動きや奥行きといった情報に解体され,再構築される。この『再構築』に時間がかかるんです。私どもの手術は,この補正回路をバイパスして,光の信号をダイレクトに意識野に流し込みます。これで処理落ちなしの遅延ゼロが実現できるっちゅーはなしです」

男はボールペンの先で,同意書の一番下を叩いた。

「ただし,言うておきますけどね。私どもがいじれるのは『脳内の処理速度』だけでっせ。光が物体に当たって跳ね返り,そちらの目に届くまでの物理的な時間はどうしようもあらへん。そこは分かってはりますね?」

「構いません。少しでも『いま』に近づけるなら」

私は迷わずにサインした。サインする自分の手すら,遅れて見えていることに吐き気がしていた。

手術は,歯科治療のような椅子に座らされて行われた。特殊な術式のため,意識のある状態でないと行えないらしい。麻酔のせいか痛みはなかったが,頭蓋骨の中で何かを削られるような,ゴリゴリという不快な音だけが響いた。まるで固くなったアイスクリームをスプーンで無理やり抉っているような。

「はい,繋がりましたよっと」

唐突に,世界が切り替わった。

包帯を外した瞬間,私は嘔吐した。そこには「絵」はなかった。

輪郭も,色彩も,遠近感もなかった。それらはすべて,脳が時間をかけて塗り絵をした結果だったのだ。「いま」の世界は,ノイズの嵐だった。意味という皮を剥がされた,光の粒子の乱打。椅子も,机も,医師の顔もなかった。そこにあるのは,バラバラの周波数で明滅する刺激の集合体だけ。遠近感の補正がないため,部屋の隅の観葉植物も,目の前の医師の顔も,すべてが同じ平面に押し込められた極彩色の絵の具のようにベタリと張り付いている。

「どうでっしゃろ,『生』の世界は」

医師の声が聞こえる。私は脂汗を垂らしながら,そのノイズの海を凝視した。処理速度は上がった。脳が映像を組み立てるコンマ数秒のラグは消えたはずだ。だが。私は絶望的な事実に気づいてしまった。ノイズの中に,わずかな「澱み」がある。光の粒が,医師の顔(と思われる部分)から放たれ,私の網膜に届くまでの,絶対的な距離。わずか一メートル半。光速で言えば,約0.000000005秒。処理速度を限界まで上げた私の脳は,その極小の時間を,まるで数秒のように鋭敏に感じ取ってしまっていた。

遅い。あまりにも遅い。そこにある医師の顔は,5ナノ秒前の過去だ。私の目は,まだ死骸を見ている。

「…変わらないじゃないか」

私は呻いた。

「言うたでしょう。物理的な距離はどうしょうもないと」

距離。そうか,距離だ。光が時間を食うのは,移動する距離があるからだ。

私はふらりと立ち上がった。遠近感のない視界の中で,医師の輪郭がおぼろげに揺れる。私は一歩踏み出す。距離が縮まる。光の到達時間が短くなる。「いま」が,近づく。私は壁に歩み寄った。壁紙の凹凸が,脳を通さない光の刺激として網膜を焼く。もっと。もっと近く。私は壁に顔を寄せた。鼻先が触れる。まだだ。まだ距離がある。眼球と壁の間には,数ミリの空間がある。その数ミリを,光が旅している。その時間が,世界を腐らせている。

私は,目を見開いたまま,壁に眼球を押し付けた。

ぐにゅり,と白目が歪む感触。角膜が壁紙のザラザラした繊維に直接触れる。冷たさと,異物感と,そして圧倒的な光の飽和。距離ゼロ。光が生まれてから死ぬまでの時間が消滅する。

「あ,あっふぁ…」

見えた。これが,壁の「いま」だ。視界の全てが白濁した闇に覆われているが,それはピントが合っていないからではない。あまりに近いからだ。過去になる前の,生まれたての壁が,私の目に突き刺さっている。

私はクリニックを飛び出した。外の世界は,誘惑に満ちていた。街灯。ガードレール。ショーウィンドウ。それらすべてが,「遠い」というだけで私に古漬けの過去を見せつけてくる。私はそれらを一つ一つ,目で味わって回った。電柱のコンクリートに眼球を擦り付ける。冷たくて硬い,現在の味。郵便ポストの冷ややかな鉄の赤。瞼を裏返すようにして押し付け,その鮮度を確かめる。通行人が悲鳴を上げて避けていくが,彼らは遠すぎて話にならない。一メートルも離れていれば,それはもう歴史上の人物だ。

家に帰ると,恋人がソファで本を読んでいた。愛しい人。だけど,君は遠い。君の笑顔が光になり,空気を伝って私の目に届くころには,君はもう別のことを考えているのだろう?そんなの,寂しいじゃないか。

君の「いま」が見たい。君の「ほんとう」が知りたい。

――私は覆いかかった。

「~~~!?」

叫んでいる。過去の声だ。どうでもいい。私は肩を押さえつけ,その顔を覗き込む。怯える瞳。綺麗な茶色の虹彩。そこには,私が映っているはずだ。でも,見えない。距離があるから。

もっと近くへ。ゼロへ。

「~~!!」

暴れ。私は構わず,自分の右目を,目の前の左目に近づけていく。まつ毛が触れ合う。互いの眼球の表面を覆う涙の膜が,ぷつり,と接触して一つになる。

瞬間,世界から時間が消えた。水晶体どうしが,薄い膜一枚を隔てて密着する。見えた。眼球の奥にある網膜の血管,脈打つ様子。いや,見えてなどいないのかもしれない。ただの圧力と,粘膜の接触が生む熱だけかもしれない。けれど,ここには遅延がない。光が走る隙間すらない。

私は,私の人生で初めて,他人の「現在」を直視している。ぐり,ぐり,と眼球を擦り合わせる。なにかが鼓膜を叩くが,それはやはり少し遅れて聞こえるような気がした。

ああ,なんて。なんて新鮮で,温かくて,暗いんだろう。私は涙を流しながら,その暗闇に没頭した。二度と,この「いま」から離れたくないと願いながら。