網の目から落ちる

六時十四分に目が覚めた。

天井の染みが見えた。二年前にペンキを塗り替えたとき,左の隅に刷毛の跡が一本残った。乾く前に塗り直しを頼めなくて,そのままになっている。毎朝見ている。

目が覚めた瞬間に,今日は学校に行かないと分かった。決めた,のではない。分かった,のだ。目を開けて天井を見た〇・五秒のあいだに,行かないことと,行かない理由が,全部,一度に。

理由は四つあった。

いちばん大きいのは体育だ。月曜の三時間目はソフトボールで,ぼくは外野の右に置かれる。チームの損害が最も小さくなる位置が,右だ。先週フライを落とした。落としたとき,遠くにいた片桐くんの顔が見えた。怒りではなかった。怒りより面積の小さい,薄くて広い判定。「こいつは最初から計算に入れないほうがいい」。判定がぼくの中に入ってきたときの温度は冷たくて,量は多かった。

二番目は宮本くん。金曜の昼,ぼくの筆箱を持ち上げて,中を見て,戻した。消しゴムが親指の先ほどに小さくなっているのを見て,何かを判断した顔で,戻した。何も言わなかった。何も言わないことは,何かを言うことより多くの情報を持っている場合がある。外に出なかった部分を,ぼくの頭が再構成した。再構成には限界がある。限界があるのがいやだった。正確に知れないことが,正確に知れることより重く頭を占めた。

三番目は理科のレポート。やっていない。先週取りかかったとき,「植物の成長に光が与える影響」の答えが頭の中で完成してしまって,それを紙に書く理由が無くなった。知っている状態から,知っていることを文字にする行為までの距離が遠くて,手が動かなかった。

四番目は,布団がちょうどいい温度だったこと。

四つ足すと,学校に行かないことの全体の,九十三くらいになる。

七が足りない。

足りない七のことは,後で考える。

* * *

母さんは六時半に起きる。台所に行く足音がした。間隔が一定だから,急いでいない朝だ。

「起きてる?」

返事をしなかった。起きているが,返事をしなかった。返事をしないことが「起きているけれど出るつもりがない」を伝える。母さんはそれを受信して,卵を焼き始めた。

二分後。

「行かないの」

声は台所から。こちらに歩いてこない。歩いてこないことの中に,「答えはもう分かっている」が入っていた。

「行かない」

それで終わった。やり取りは二往復で完了した。「行かないの」の中に,ぼくの理由の上位二つが母さんの推定として含まれていたからだ。母さんは先週の体育を知っている。宮本くんは知らないかもしれないが,声の圧と応答速度から,ただの体調不良でないことは読み取れる。読み取れるから訊かない。訊いてもぼくの負荷が増えるだけだと判断したからだ。

母さんのこの判断は正しい。

正しいことが,少しだけ重かった。正しさの重さは,間違いの重さと体の中の位置が違う。胸ではなく,頭のてっぺん。

* * *

七時四十分。通学路の足音が窓の外を通った。複数。足音の数と間隔から三人。大村くんと小川さんと,もう一人。もう一人は特定できない。家の前を通るとき,一つの声がした。「藤野ー」。大村くんだ。ぼくの部屋は二階で,窓は閉まっている。聞こえたかの確認は三秒で打ち切られ,足音は遠ざかった。

八時十二分,母さんがドアを三十度だけ開けた。

「ごはん,おなか空いたら食べなね」

「うん」

声の中に,心配が大きくあった。次に信頼。残りのわずかなところに,判定しきれないものが混じっていた。ぼくの検出能力の限界なのか,母さんの中にも名前のないものがあるのか。

端数。

この語が浮かんだ。算数で習った。割り切れずに余る数。人の中にも,端数はあるのだろうか。

台所に卵焼きを食べに行った。冷めた卵焼きは,温かいときより味の輪郭がはっきりしていた。

壁にポスターが一枚。水族館のジンベエザメ。口が大きくて,水ごと何でも飲み込む。ぼくの頭もそうだ。来た情報を全部飲む。吐き出す仕組みがない。

* * *

九時。ソファに座った。テレビはつけない。窓の外を見た。風がない。向かいの家の洗濯物が動かない。

今日は,足りない七を考える。それだけに一日を使う。

七は体育の中にはなかった。体育のことは完全に分解し終えている。嫌の中身はすべて見渡せて,不明な部分はない。宮本くんの中にもなかった。「宮本くんの内部が推定できないこと」自体は記述できる。記述できるものは端数にならない。理科も布団も同じだ。構造が見えている。端数ではない。

四つとも端数ではなかった。七は,四つの箱の中ではなく,箱と箱のあいだにある。

網の目から落ちる魚がいる。

* * *

ぼくが覚えている限り,それはずっとあった。

四年生の遠足。バスで隣が空いていた。最後に乗ったからではなく,ぼくの隣を選ばなかった結果として空いた。あのとき——あった。胃の上のほう。温度のないもの。

三年生の授業参観。黒板に答えを書いて,正解で,母さんが微笑んだ。微笑みは全部ぼくに届いた。誇りが大きくて,安心がその次で,残りが——あった。母さんの微笑みの中にではなく,ぼくの中に。

二年生の夏。父さんと公園にいた。砂場で山を作るぼくを見て,よくできたな,と言った。嬉しかった。嬉しさの成分は全部分かっている。全部分かっているのに,あのときも——同じ場所に,同じ温度のなさが,嬉しさの隣にあった。

父さんは今週,出張でいない。金曜に帰ってくる。分かっているから端数ではない,はずだった。なのに砂場の記憶の中の「よくできたな」の隣に,それがある。父さんも持っていたのだろうか。ぼくの砂山を見ながら,胃の上のあたりに,温度のないものを。

分からない。分からないものが一つ増えた。

* * *

ぼくの知っている感情の分類は多い。多くて,すべての感情状態を覆っている——と,ぼくは思っていた。

覆っていなかった。

端数ではないものがこんなにたくさんあって,端数であるものがたった一つしかなくて,たった一つのほうが全部より重い。「重い」は正確ではない。重さは測れる。測れないものを重いとは言わない。では何と言えばいいのか。言えない。言えないものを,どう扱えばいいのか。

思考が同じ場所を回った。七を探す。見つからない。見つからないことを正確に記述する。記述は正確だが,記述は七そのものではない。また探す。

泣きそうになった。その成分も即座に分解された。悔しさが大きくて,疲労がその次で,自分の能力の壁への怒りがそのまた次で,残りが——さっきより大きくなっている。ぼくが名前をつけようとするほど,それは膨らむ。見ようとするほど,見えないまま膨らむ。

分からないものが二つに増えた。

* * *

気がつくと泣いていた。理由は全部分かっている。分かっていることが過剰で,過剰さが負荷になって,排出経路として涙が出ている。記述できる。記述できることが,何の慰めにもならなかった。涙の温度,呼吸の間隔,鼻の奥のつまり。全部感知される。泣いている最中でさえ,ぼくはぼくの泣き方を観察している。目をつぶっても,ぼくの頭はぼくを分解して,並べて,名前をつけて,棚に入れる。棚に入らないものだけが床に転がっていて,それが一個で,その一個の名前が分からない。

分からないものが三つになった。朝には全部分かっていたのに。一日考えただけで,分からないものが増えた。

今日ぼくがしたのは,数えたことだけだ。

* * *

五時四十分。玄関が開いた。鍵の音,足音。母さんが帰ってきた。買い物袋を台所に置いて,冷蔵庫を開けた。

「晩ごはん,何がいいかな」

「何でもいい」と言いたかった。

言えなかった。「何でもいい」はうそだ。ぼくには好みがあり,順番があり,上のほうは明確に存在する。事実に合わないことを,ぼくの頭が通さなかった。

「お肉」

最小の語で言った。

「まかして」と母さんが言った。

ぼくはソファで,「何でもいい」を言えなかったことを考えていた。母さんは「何でもいい」を受け取っても,ぼくの好みを知っているから,ぼくの好きなものを作る。結果は同じだ。なのに過程が違う。「何でもいい」を経由する過程には,ぼくが母さんに選択を預けるという行為が含まれている。預けることの中に,信頼とは別の何かがある。信頼はもう伝え終わっている。では,別の何かとは。

分からない。

四つ目。

* * *

生姜焼きを,向かい合って食べた。虫の声がする。六月の虫。

母さんが箸を止めた。

「つらかった?」

泣いた跡に気づいていたのだろう。気づいていて,食事の最初ではなく,少し食べ進んでから訊いた。最初に訊くと食欲に影響するから。判断は正しい。

ぼくは「つらかった」の中身を分解した。痛みが大きくて,疲労がその次で,自分から逃げられないことの息のつまる感じがそのまた次で,残りが——あった。朝の七より,少し大きくなっている。

「うん」

「つらかった」

正確だった。でも,全部ではなかった。記述できないぶんは「うん」の中に含まれずに,ぼくの胃の上に残った。

母さんが頷いた。頷きの中に何が入っているかは見えた。受け止めようとする力が大きい。ぼくの痛みを引き受ける動きがその次。残りが——

母さんにも端数がある。

母さんの頷きの中にも,名前のついていないものがある。ぼくの端数と母さんの端数が,テーブルを挟んで向かい合っている。向かい合っているのに届かない。橋がない。橋を架ける材料が,ぼくの手の届くところにない。

ぼくはそのとき初めて,自分の頭が嫌いだと思った。

思って,即座にその感情も分解された。嫌悪が大きくて,悲嘆がその次で,残りがあって。

いつも同じだけ余る。何を考えても,何を感じても,いつも同じだけ余って,余ったぶんはどこにも行けない。母さんの端数も,母さんの中に残っている。

「ごちそうさま」

「ごちそうさま」

* * *

部屋に戻って,電気を消した。天井の刷毛の跡が見えなくなった。

明日は学校に行く。六時十四分に目が覚めて,刷毛の跡を見て,体操服を鞄に入れて,一人で歩いて,外野の右に立って,たぶんまたフライを落とす。全部見える。全部分かっている。

全部分かっている中に,いつも同じだけ,分からないものが混じっている。注文したのに届かない荷物。届かないのに毎朝届く不在票。不在票だけが溜まっていく。

明日,目が覚めたら,分からないものは五つになっているかもしれない。来月には六つに。分かるものは変わらず全部分かったまま,ぼくは全部が見える明るい部屋の中で,増え続ける影を数えて暮らしていく。

影の数は正確に分かるのに,影の中身だけが永久に分からない。

目を閉じた。まぶたの裏も暗い。冷蔵庫の音がする。虫の声がする。全部感知できる。全部分かる。分かる。分かることが止まらない。

止まらないまま,ぼくは眠りに落ちていく。

端数を抱えたまま。名前のないまま。届かないまま。ずっと。