網の目から落ちる

六時十四分に目が覚めた。

天井の染みが見えた。二年前にペンキを塗り替えたとき,左の隅に刷毛の跡が一本残った。塗り直しを頼む前に乾いてしまって,そのままになっている。毎朝見ている。

目が覚めた瞬間に,今日は学校に行かないということが分かった。決めた,のではなかった。分かった,のだ。布団の中で目を開けて天井を見た〇・五秒のあいだに,行かないことと,行かないことの理由が,全部,一度に。

理由は四つあった。

いちばん面積が大きいのは体育だった。月曜の三時間目はソフトボールで,ぼくは外野の右側に配置される。チームの効率を最大にする並びの中で,ぼくの守備能力が最も損害を与えない位置が右側だ。先週の火曜日にフライを落とした。落としたとき,遠くにいた片桐くんの顔が見えた。怒りではなかった。怒りよりも面積の小さい,薄くて広い感情で,「こいつは最初から計算に入れないほうがいい」という判定だった。判定を向けられたとき,ぼくの体の中に入ってきたものの温度は冷たくて,量は多かった。それが今日また来る。

二番目は宮本くんのことだった。金曜日の昼休みに宮本くんがぼくの筆箱を持ち上げて中を見た。見て,戻した。ぼくの消しゴムが親指の先ほどに小さくなっていることを見て,何かの判断をした顔で,戻した。宮本くんはそのとき何も言わなかった。何も言わないことは,何かを言うことよりも多くの情報を持っている場合がある。あの瞬間に宮本くんの内部で起きたことのうち,外に出なかった部分は,ぼくの頭の中で再構成された。再構成の精度には限界がある。限界があることがいやだった。正確に知れないことが,正確に知れる場面よりも重くぼくの頭を占めていた。

三番目は理科のレポート。やっていない。やっていないことの経緯も明瞭で,先週の木曜に取りかかったとき,「植物の成長に光が与える影響」という課題の答えがぼくの頭の中で完成してしまい,それを紙に書く必要が消えた。答えを知っている状態から,知っていることをわざわざ文字にする行為の中間にある距離が遠くて,手が動かなかった。

四番目は,布団がちょうどいい温度だったこと。

四つの理由を足すと,学校に行かないことの全体量の,九十三くらいになる。

七が足りない。

足りない七のことは,後で考える。

* * *

母さんは六時半に起きる。起きて台所に行く足音がした。足音の間隔が一定なので,急いでいない朝だ。今日は母さんの仕事が昼からだから,午前中は家にいる。

ぼくは布団の中にいた。目は開けたまま天井を見ていた。体育のフライを落としたときの片桐くんの顔が,まだ頭の中にある。あの顔の情報量を分解すると,眉の角度,口の閉じ方,視線の滞在時間,体の重心の移動——それらが一つの判定に収束している。「こいつは外していい」。ぼくが見たのは判定の表面だけかもしれない。片桐くんの内部にはもしかしたら表面と違う成分があったかもしれないが,それはぼくの位置からは検出できなかった。検出できないことはぼくにとって存在しないのと同じ——ではないのだが,使える情報はぼくに届いた分だけだ。

台所から卵を割る音がした。二個。間隔が短いので片手で割った。母さんは片手で卵を割れる。ぼくは割れない。

「起きてる?」

母さんの声。

返事をしなかった。起きている。起きているが,返事をしなかった。返事をしないことが何を伝えるかは分かっている。「起きているけれど出てくるつもりがない」を伝えている。母さんもそれを受信する。受信して,卵を焼き始めた。油の音がした。

二分後。

「行かないの」

母さんの声は台所から来た。こちらに歩いてこなかった。歩いてこないことの中に,「返答を急がない」と「答えはもう分かっている」が入っていた。

「行かない」

ぼくは言った。

それで終わった。母さんはそれ以上何も訊かなかった。卵焼きの匂いが廊下を通って部屋まで来た。ぼくは布団を顎まで引き上げて,天井の刷毛の跡を見ていた。

やり取りは二往復で完了した。二往復で完了できるのは,「行かないの」の中にぼくの四つの理由のうち少なくとも上位二つが母さんの推定として含まれていたからだ。母さんは先週の体育のことを知っている。宮本くんのことは知らないかもしれないが,ぼくの声の圧と応答速度から,単なる体調不良ではないことは読み取れる。読み取れるから訊かない。訊かないのは,訊いてもぼくの負荷が増えるだけだと判断したからだ。

母さんのこの判断は正しい。

正しいことが,少しだけ重かった。正しさの重さは,間違いの重さとは体の中の位置が違っていて,胸ではなく頭のてっぺんのあたりに来る。

* * *

七時四十分。通学路を歩く足音が窓の外から聞こえた。複数。ぼくと同じ学校の子たちだ。声は聞き取れない距離だけれど,足音の数と間隔から三人組。三人で歩くのは,たぶん大村くんと小川さんと,もうひとり。もうひとりは特定できない。

足音が家の前を通り過ぎるとき,一つの声が聞こえた。「藤野ー」。大村くんの声だった。ぼくの部屋は二階で,窓は閉まっている。聞こえたかどうかの確認は三秒ほどで打ち切られたらしく,足音はそのまま遠ざかった。

ぼくは月曜から金曜まで一人で歩く。一人で歩くことは選択ではなく結果で,結果に至る過程は複数ある。三年生まで一緒に歩いていた高木くんが引っ越したこと。四年生のとき同じ方向の子と時間が合わなくなったこと。五年生になってからはそもそも誰かと合わせようとしなくなったこと。三番目の理由がいちばん面積が広い。合わせようとしなくなった理由はさらに分解できるが,分解するとまた四つくらいに分かれて,その四つもまた分かれる。枝が枝を生むように,どこまでも分かれていく。

どこまで分解しても,全部見える。全部見えるということは,全部持っているということだ。分解した枝の一本一本が,全部ぼくの中にある。

足音が遠ざかった。通りが静かになった。学校が始まる時刻にはまだ早い。もう少ししたら,もっと静かになる。

* * *

八時十二分。母さんが部屋のドアを三十度だけ開けた。

「卵焼き置いとくね。あと麦茶」

「うん」

ドアが閉まった。

母さんの声の中に,心配の成分が大きくあった。次に信頼。残りのわずかなところに,判定しきれないものが混じっていた。ぼくの検出能力の限界なのか,それとも母さんの内部にも名前がついていない何かがあるのか。

端数。

この語が浮かんだ。算数で習った。割り切れずに余る数のことだ。人の中にも,端数はあるのだろうか。

* * *

九時。布団の中で体の位置を変えた。仰向けから横向き。壁が見える。壁にはポスターが一枚。去年の遠足で行った水族館の,ジンベエザメ。ジンベエザメの口は大きくて,水ごと何でも飲み込む。選ばない。来たものを全部飲む。ぼくの頭もそうだ。来た情報を全部飲む。吐き出す仕組みがない。

体育のフライのことをもう一回考えた。考えたのではなく,来た。フライが落ちる軌道。ぼくのグラブの位置。ずれた角度。ボールが芝に落ちる音。音の直後に走った振動が,足の裏から頭のてっぺんまで来た。あのときぼくの体の中にあったものを分解すると,恥が大きくて,悔しさがその次で,「やっぱり」という予測の的中がもたらす妙な安心がそのまた次で,残りが——

残りが何なのか分からなかった。

あのとき。あのときぼくは,残りの分だけ,何を感じていたのか。

恥でも悔しさでも安心でもない。体のどこにあったかは覚えている。胃の上のほう。みぞおちより少し右。冷たくはなかった。熱くもなかった。温度を持たない感情は,ぼくの知っている分類のどこにも入らない。

入らないものは名前を持たない。名前を持たないものは伝えられない。伝えられないものは——ある。あるのに届かない。グラブの中に入らなかったボールのように,すぐそこにあったのに,触れなかった。

* * *

九時半。卵焼きを食べに行った。廊下を歩くとき,母さんの部屋のドアが閉まっていた。中からキーボードを打つ音がしていた。午前中のうちに片づける仕事があるのだろう。ぼくが台所にいることは足音で分かっているはずだが,キーボードの音は途切れない。気にしていないのではない。気にしたうえで中断しないことを選んでいる。ぼくにはその選択が読める。母さんにも,ぼくが読んでいることが読める。読み合いが完了するのにかかる時間は,ほとんどゼロだ。

卵焼きは冷めていた。冷めた卵焼きは甘くて,温かいときより味の輪郭がはっきりしていた。麦茶は氷が三つ。母さんはいつも三つ入れる。三つがちょうどいいとぼくが言ったことはないが,三つがちょうどいいことを母さんは知っている。

ぼくが知っていることを母さんは知っていて,母さんが知っていることをぼくは知っている。

氷が一つ沈んで浮いた。グラスの中で回った。

* * *

十時。リビングのソファに座った。テレビはつけなかった。窓の外を見た。風がない。向かいの家の洗濯物が動かない。バスタオルが二枚と白いシャツが一枚。シャツの袖が少しだけ跳ねて,また止まった。

今日は何もしない。何もしないことを,朝から決めていた。正確には朝に決めたのではなく,六時十四分に目が覚めた瞬間に決定は完了していた。学校に行かないこと。何もしないこと。ただ考えること。

何を考えるのか。

足りない七を考える。

朝に四つの理由を足して九十三になったとき,七が余った。余ったのではない——足りなかった。ぼくが学校に行かない理由の全体が百だとして,分解できた理由を全部足しても百にならない。七が,理由の形をしていないまま,どこかにある。

体育。宮本くん。理科のレポート。布団の温度。足して九十三。

七が何なのかを考えるために,今日一日を使う。

* * *

十一時。

七は体育の中にはなかった。体育のことは完全に分解し終えている。フライを落とした。片桐くんの判定を受けた。来週またそれがある。それが嫌だ。嫌の中身はすべて見渡せて,不明な部分はない。

宮本くんの中にもなかった。宮本くんのことは不明な部分が多いが,その不明さ自体は記述できる。「宮本くんの内部状態が推定できないこと」は把握できている。把握できているものは端数にならない。

理科のレポート。答えを知っているのに書けない。この現象の構造は見えている。入力と出力のあいだの変換の手間の問題。端数ではない。

布団の温度。体が快い温度に包まれているとき,そこから出ることへの抵抗。生理的な反応。見えている。端数ではない。

四つとも端数ではなかった。

七はどこにあるのか。

四つの箱の中ではなく,四つの箱の外にある。箱と箱のあいだにあるのか。箱の下にあるのか。

ソファの上で膝を抱えた。膝の皿が腕に当たっていて,硬かった。

* * *

正午。

母さんが部屋から出てきて台所で何かを作り始めた。匂いからして味噌汁。包丁の音が一種類しかしないから,具は豆腐だけだ。

「食べる?」

「食べる」

向かい合って食べた。味噌汁と,冷蔵庫にあった昨日の残りのひじき。母さんはぼくの顔を見て,何かを確認して,確認したことを表に出さなかった。表に出さないことの中に何があるかは見える。心配がまだ大きい。信頼もある。その奥に「訊きたいけれど訊かないほうがいいと判断している内容」の輪郭がうっすら見える。

母さんが味噌汁を飲み,箸を置いた。

「午後から出るからね。戸締まりしてね」

「うん」

「明日はいけそう?」

「行く」

ぼくは答えた。答えた瞬間,明日の朝の六時十四分に目が覚めて天井の刷毛の跡を見る自分が,もう見えた。見えた自分は体操服を鞄に入れて玄関を出る。一人で歩く。学校に着く。空席だった椅子に座る。

全部見える。

全部見えるのに,「行く」と答えたぼくの胃の上のほう——みぞおちの少し右——に,温度のないものがあった。

* * *

午後一時。母さんが出かけた。玄関のドアが閉まる音。鍵が回る音。足音が遠ざかる。自転車の音。消えた。

家の中が静かになった。

冷蔵庫の音がする。低い音。ずっと鳴っている。エアコンは切ってある。六月で,窓を開ければ風が通る。開けた。風が来た。カーテンが膨らんで,戻った。

ぼくは自分の部屋に戻って,ベッドに仰向けになった。天井。刷毛の跡。

午後を全部使って,七を探す。

* * *

体育のフライを落とした日のことを,最初からもう一度展開した。

朝。教室。体育の前の休み時間に着替えた。体操服の袖が少しきつくなっていた。成長した。成長したことは数値としては正の変化だが,袖がきつい体操服は「替えてもらわないといけない」を意味していて,それは母さんに言わなければならないことで,言えばすぐ買ってもらえるのだけれど,「きつくなった」と伝えることの中に自分の体を申告する居心地の悪さがあって——

これは端数ではない。居心地の悪さは見えている。見えるから端数ではない。

グラウンドに出た。チーム分け。ぼくは外野の右。配置された瞬間の,足の裏の感触。芝が少し湿っていた。朝に雨が降った。空はもう晴れていた。太陽が正面にあって,まぶしかった。

三回の表。相手チームの安藤さんが打った。高いフライ。ぼくの方向に来た。走った。グラブを出した。ボールが——指先の三センチ右を通過した。着地音。

振り向いたときの片桐くんの顔。

ここまでは全部知っている。全部見える。見えないものはない。

見えないものはない——のに。

胃の上のほう。温度のないもの。

ぼくはフライを落としたとき,何を感じていたのか。恥が大きくて,悔しさがその次で,予測どおりだったことの安心がそのまた次で。残りが——あった。フライのときの残りと,今朝の七は——

同じものだ。

同じものなのか。

ぼくはベッドの上で体を起こした。心臓が少し速い。

同じものだ。同じもので,量が違う。フライのときの残りが,今朝には七に減っている。減ったのは何かが解消されたからではなく,他の理由が増えたから相対的に縮んだだけだ。

同じものはいつからあるのか。

* * *

探した。記憶の中を。

四年生の遠足。バスの中で,隣の席が空いていた。最後に乗ったからではなく,ぼくの隣を選ばなかった結果として空いた。あのとき——あった。胃の上のほう。温度のないもの。

三年生の授業参観。母さんが教室の後ろに立っていた。ぼくが黒板に答えを書いた。正解だった。母さんが微笑んだ。微笑みの成分はぼくに届いた。全部届いた。誇りが大きくて,安心がその次で,残りが——あった。あのときも。母さんの微笑みの中にはない。ぼくの中にある。

二年生の夏休み。父さんと二人で公園にいた。父さんがベンチに座って,ぼくが砂場で山を作るのを見ていた。よくできたな,と父さんが言った。ぼくは嬉しかった。嬉しかったことの成分は全部分かっている。全部分かっているのに,あのときも——

ある。同じ場所。同じ温度のなさ。嬉しさの隣に,それがあった。

父さんは今週,出張でいない。いないことの成分は分解済みで,金曜に帰ってくることも分かっている。分かっているのだから端数ではない——はずだった。

はずだったのに。

砂場の記憶の中に,父さんの声がある。よくできたな。あの声の成分は全部届いていた。全部届いていたのに,ぼくの端数はあの瞬間にもあった。父さんも持っていたのだろうか。ぼくの砂山を見ながら,胃の上のあたりに,温度のないものを。

分からない。分からないものが一つ増えた。

* * *

午後二時半。

ぼくが覚えている限り,それはずっとあった。

ずっとあるものは,ぼくの一部なのか。ぼくの一部だとしたら,なぜ名前がつかないのか。ぼくの知っている感情の分類は多い。多くて,すべての感情状態を覆っている——と,ぼくは思っていた。覆っているはずだった。

覆っていなかった。

網の目から落ちる魚がいる。

ぼくはベッドの上で膝を抱えた。さっきソファで抱えたのと同じ姿勢。膝が硬い。爪が少し長い。切らなきゃいけない。切らなきゃいけないことは分かっていて,分かっていることは処理可能で,処理可能なことの列にこの爪も並んでいる。並んでいるものは端数ではない。

端数ではないものがこんなにたくさんあって,端数であるものがたった一つしかなくて,たった一つのほうが全部よりも重い。

重いという表現は正確ではない。重さは測れる。測れないものを重いとは言わない。では何と言えばいいのか。

言えない。ぼくの頭の中にある分類のどこにも入らないものを,どう呼べばいいのか。呼べないものをどう扱えばいいのか。扱えないものをどう——

思考が巡回した。

巡回している,ということは分かる。同じ場所を回っている。七の正体を探す。見つからない。見つからないことを正確に記述する。記述は正確だが,正確な記述は七そのものではない。七の正体を探す。見つからない。

回っている。十五回は回った。回数を数えられることが,何の助けにもならない。

ぼくの頭は,ぼくに見えるものしか見せてくれない。見えないものを見せてほしいのに,見えないものは見えないのだから,見ようとすること自体がたぶん壊れた手順で——

泣きそうになった。

泣きそうになったことの成分は即座に分解された。悔しさが大きくて,疲労がその次で,自分の思考の能力の壁に対する怒りがそのまた次で,残りが——

残り。

さっきより大きくなっている。

大きくなっている。ぼくが名前をつけようとすればするほど,それは膨らんでいく。ぼくが見ようとすればするほど,見えないまま,膨らんでいく。

* * *

三時。

遠くでチャイムが鳴った。学校のチャイムではない。地域の時報。三時を示す旋律が,スピーカーを通じて空気を震わせている。旋律は古い。母さんが子供の頃から同じ曲だと言っていた。

ぼくはまだベッドにいた。

七を探し続けていた。探すことしかできなかった。探して,見つからなくて,見つからないことを正確に把握して,把握したことが何の足しにもならなくて,また探す。ぼくの頭はこの手順しか持っていない。別の手順があるのかもしれないが,別の手順の存在を確認する手順もまた同じ形をしている。

窓から風が入ってきた。さっきより強い。カーテンが大きく膨らんで,ぼくの足に触れた。布の温度。外の温度。六月の温度。全部感知できる。全部分かる。分かることが多すぎて,分からないものの輪郭がかえってくっきりする。明るい部屋の中にたった一つ影があったら,影はかえって目立つ。ぼくの頭の中は明るくて,明るいからこそ,あの一つの影が消えない。

消えないどころか,見れば見るほど濃くなる。

* * *

四時。

ぼくは泣いていた。

泣いていることの理由は分かっている。全部分かっている。分かっていることが過剰で,過剰さが負荷になっていて,負荷の排出経路として涙が出ている。それは記述できる。記述できることが何の慰めにもならなかった。

涙の温度。呼吸の間隔。鼻の奥のつまった感じ。全部感知される。全部ぼくの知覚に入ってくる。泣いている最中でさえ,ぼくはぼくの泣き方を観察している。観察が止まらない。

泣きたいだけ泣かせてほしい。

誰に言っているのか分からなかった。ぼくの頭の中にいるのはぼくだけで,ぼくがぼくを観察する目を閉じることはできない。目をつぶっても——目をつぶっても——見えている。ぼくの頭は,ぼくが何をしても,何を感じても,それを分解して並べて名前をつけて棚に入れてしまう。棚に入らないものだけが床に転がっていて,転がっているのは一個で,一個の名前が分からない。

分からないことが一つだけあって,その一つが分からないことが,残りの全部が分かっていることよりも重い。重い。重い。——重いことの重さがどれだけなのか分からないが——

分からないことが,たった一つだけあるということ。

それが嬉しいのか悲しいのかも,分からなかった。

分からないものが二つに増えた。

* * *

五時。

時報が鳴った。さっきより長い旋律。西日が窓から入ってきて,ベッドの上に四角い光を置いた。光の中に埃が舞っていて,埃の一つ一つの軌道が見える。空気の流れが見える。

ぼくは泣き終わっていた。泣いていた時間はたぶん四十分くらい。顔が腫れている。枕が湿っている。裏返した。

考え終わった,と思った。

考え終わったのではない。七は見つかっていない。見つかっていないが,ぼくの中で七を探す動きが止まった。止まったのは諦めとは違う——もう一つ,分からないものが増えたということだ。なぜ止まったのか。止まったことの理由が分からない。

分からないものが三つになった。朝には全部分かっていたのに。全部分かっている人間だったのに。一日何もせず考えただけで,分からないものが三つに増えた。

考えるほど分からないものが増えるなら,考えなければよかったのか。

それは違う。考えなくても分からないものは最初からあった。あったのに数えていなかった。

今日ぼくがしたのは,数えたことだけだ。

* * *

五時四十分。

玄関のドアが開いた。鍵の音。足音。母さんが帰ってきた。

ぼくは顔を洗って,リビングにいた。テレビはつけていない。窓はまだ開いていて,夕方の風がカーテンを揺らしている。

母さんが買い物袋を台所に置いた。冷蔵庫を開けた。

「夕飯,何がいい」

ぼくは答えようとした。

口が止まった。

夕飯何がいい。この問いの最適な回答は,ぼくの栄養状態と好みと冷蔵庫の在庫から出せる。出したものを伝えれば,母さんはそれを作る。いつものことだ。

なのに口が動かなかった。

「何でもいい」と言いたかった。

「何でもいい」はうそだ。ぼくには好みがあり,好みに基づく順番があり,順番の上のほうは明確に存在する。「何でもいい」は事実に合わない。事実に合わないことを口にすることは——

ぼくの頭が,それを通さなかった。

「お肉」

ぼくは言った。最小の語で。

母さんが「了解」と言った。冷蔵庫から何かを出す音がした。

ぼくはソファに座ったまま,自分の口が「何でもいい」を言えなかったことについて考えていた。言いたかったのに言えなかった。言えなかったのはぼくの頭がそれを許可しないからで,許可しない理由は「何でもいい」が偽の情報だからだ。

偽の情報を伝えたかった。

偽の情報を伝えることの中に,何があるのか。母さんは「何でもいい」を受け取る。受け取った母さんは,ぼくの好みを知っているから,ぼくが好きなものを作る。結果は同じだ。結果は同じなのに,過程が違う。「何でもいい」を経由する過程には,ぼくが母さんに選択を預けるという行為が含まれていて,預けるという行為の中には——

何がある。

信頼は最初からある。母さんを信頼していることは確定していて,母さんもそれを知っている。信頼は伝え終わっている。では「何でもいい」の中にある,信頼とは別のものは何か。

分からない。

四つ目。

ぼくの中で分からないものが四つになった。

* * *

夕飯は生姜焼きだった。

母さんと向かい合って食べた。窓の外が暗くなり始めている。虫の声がする。六月の虫。

母さんが箸を止めた。

「つらかった?」

ぼくの顔を見ている。泣いた跡が残っていることに気づいていたのだろう。気づいていて,夕飯の間,この時点まで待っていた。食事の最初に訊くと食欲に影響するから,少し食べ進んでから訊くほうがいい。母さんはそう判断した。判断は正しい。

ぼくは母さんを見た。

母さんの目は,ぼくの内部状態の大部分を読み取れる。ぼくが何を考え,何に泣いたか。全部ではないにしても,ほとんど届く。届くから母さんは「何があったの」ではなく「つらかった?」と訊いた。何があったかはだいたい分かっていて,それがつらさを伴ったかどうかだけを確認している。

ぼくは正確に答えなければならない。正確に答えることしかできない。

つらかった,のか。

つらかったの中身を分解した。痛みが大きかった。疲労がその次。自分が自分から逃げられないことの,息のつまる感じがそのまた次。残りが——あった。残りの量は,朝の七よりもう少し大きくなっている。

「うん」

ぼくは言った。

「つらかった」

それは正確だった。正確だったが,全部ではなかった。つらかったの中に,記述できないものがあって,そのぶんはぼくの「うん」の中に含まれずに,ぼくの胃の上のほうに残った。

母さんが頷いた。

頷きの中に何が入っているかは見えた。受け止めようとする力が大きい。ぼくの痛みを引き受ける動きがその次。残りが——

母さんにも端数がある。

母さんの頷きの中にも,名前のついていないものがある。ぼくの端数と母さんの端数は,たぶん,テーブルを挟んで向かい合っている。向かい合っているのに届かない。二人のあいだに渡す橋がない。橋を架ける材料がない。材料があるところにぼくの手が届かない。

ぼくはそのとき初めて,自分の頭が嫌いだと思った。

思って,即座にその感情も分解された。嫌悪が大きくて,悲嘆がその次で,残りがあって。

いつも同じだけ余る。ぼくが何を考えても,何を感じても,いつも同じだけ余って,余った分はどこにも行けない。出力できない。出力しようとすると,出力できる部分だけが出ていって,端数はぼくの中に残る。

母さんの端数も,母さんの中に残っている。

ぼくたちは向かい合って座っている。生姜焼きの皿が二枚。麦茶のグラスが二つ。ぼくの端数と母さんの端数がテーブルの上で会えないまま,夕飯が終わろうとしている。

「ごちそうさま」

「ごちそうさま」

皿を重ねて台所に運んだ。水の音がした。母さんが皿を洗っている。

ぼくは部屋に戻った。ベッドに座った。枕はまだ裏返したまま。

* * *

明日は学校に行く。行くことは確定していて,確定していることはぼくの全部に行き渡っている。明日の朝,六時十四分に目が覚めて,天井の刷毛の跡を見て,体操服を鞄に入れて,一人で歩いて,教室の椅子に座る。体育がある。フライが来る。たぶんまた落とす。片桐くんの顔。宮本くんの不明。先生の声。全部見える。全部分かっている。

全部分かっている中に,いつも同じだけ,分からないものが混じっている。

それはぼくが生きている限り,どこにも行かない。ぼくの頭がぼくにくれるものの中に,いつも同じ量だけ,届かないものがある。注文したのに届かない荷物。届かないのに毎朝届く不在票。不在票だけが溜まっていく。

ぼくは電気を消した。暗くなった。天井の刷毛の跡が見えなくなった。

暗い。

暗い中で,ぼくの頭はまだ動いている。動いて,分解して,並べて,名前をつけて,棚に入れている。暗くても止まらない。目を閉じても止まらない。眠っても——眠っているあいだも,たぶん,止まらない。

明日の朝,目が覚めたら,分からないものは五つになっているかもしれない。あさってには六つに。来月には。来年には。分からないものは増え続けて,分かるものは変わらず全部分かったまま,ぼくは全部が見える明るい部屋の中で,増え続ける影を数えて暮らしていく。

影の数は正確に分かるのに,影の中身だけが永久に分からない。

ぼくは目を閉じた。まぶたの裏も暗い。外の暗さと内側の暗さが重なった。冷蔵庫の音がする。虫の声がする。ベッドのシーツの温度。全部感知できる。全部分かる。分かる。分かる。分かることが止まらない。

止まらないまま,ぼくは眠りに落ちていく。

明日も全部分かる。明日も端数は残る。残った端数が何なのかは明日も分からない。分からないまま学校に行って,一人で歩いて,外野の右側に立って,フライを落として,帰ってきて,母さんと向かい合って,ごちそうさまを言う。

端数を抱えたまま。名前のないまま。届かないまま。ずっと。