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5W1H

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2026.05.20
story

体験,と銘打った企画だった。

駅前にできたばかりの現代美術館が,夏の終わりに無料の制作ワークショップというのを開いていた。私はクーラーが目当てだった。受付の女性はにこやかに,材料一式の入った白い箱と,黒いエプロンを差し出してきた。

「お好きなものを,どうぞ」

「お好きな,ですか」

「テーマも,使うものも,自由です」

十名ほどの参加者が長机を囲んでいた。粘土をこねるひとや,針金をねじるひと,画用紙に絵の具をぶつけるひとがいた。みなずいぶんと手慣れているふうで,自分のなかの何かを布に押しつけているように見えた。

私は箱から,発泡スチロールの塊と,銀色の細い棒と,赤と青の絵の具を取り出した。理由はなかった。手はいつのまにか動いていて,気がつくと棒の片端が床のほうに向いた,得体の知れない塊が机に残っていた。

やがて,「講評」というものが始まった。

進行役の若い男性――胸の名札の下に,何かの賞の名前が小さく印字されていた――が,順々に作品の前に立った。みな自身の作品について語った。喪失とか,祖父の死とか,非対称への執着とか,それぞれが言葉を尽くしていた。男性はそのひとつひとつに丁寧に,しかし手短に応じた。

私の番が来た。

「特に,なにもないです」

笑い声があった。意地の悪くない種類の笑いだった。男性も口角を上げて,それから少し,少しだけ長く,机のものを見ていた。

「では,なぜこの棒は,こちらに傾いているのですか」

「なぜ,赤と青なのですか」

「なぜ,ここで止めたんですか」

答えは何もなかった。あのとき私が考えていたのは,たしか,帰りの弁当のことだった。男性は,私が答えたかのように三度頷いて,それから次の参加者の前へと進んでいった。

帰りの電車のなかで,何かが音もなく欠けていく気配がした。

* * *

その夜,美術,と検索窓に打ち込んでみた。

ピアノの前に座って何も弾かないひとがいた。果物をガムテープで壁に貼り付けたひとがいた。陶器の便器を仰向けに展示したひとがいた。床に絵の具を撒き散らしたひとがいた。彼らの記事はおおよそ同じ体裁をしていた。いつ,どこで,誰が,どんな考えのもと,どのような手つきでそれを行ったかが,整然と書き連ねられていた。来歴と思想と技法と環境とが,作品の傍らに,あるいはむしろ作品の上に,びっしりと書き込まれていた。

夜が更けるうちに,気づかなくてもよかったことに気づいてしまった。

便器を仰向けに置くくらいなら,私にもできるはずだった。バナナをガムテープで貼り付けることも,沈黙することも,絵の具をぶちまけることも,たぶん手の動きとしては誰にでもできるはずだった。しかし,私が同じことをやったところで誰も振り返らないことは,すでに分かりきっていた。

そこにあるのは,作品ではなく,作品の周辺だった。

作った人物,作られた経緯,作られた場所,作られた時――そういったものこそが,作品そのもののようだった。

作品とは,作品ではなく,5W1Hのことだった。

なら,作品はそのままにして,残りのほうを作ればいいのではないか,と私は考えはじめていた。

机の上のあれを,もう一度作ろうとは思わなかった。むしろあれは,あのままでよかった。なぜそこに棒があるのか,なぜ赤と青なのか,なぜそこで止めたのか――問いに対する答えは,これから用意していけばよかった。手はもう動いてしまったのだから,あとは,動かした理由をこしらえる作業だけが残っていた。

それから,誰がそれを作ったのか,どこで,いつ作ったのかも,これから決めていけばよかった。

私は,これから残りの人生をかけて,あれを作ったに足るだけの人間に,なっていく必要があった。

会社に辞表を出したのは翌週のことだった。引き止めはなかった。退職金は,しばらくのあいだ私を支えてくれるはずの額だった。

* * *

社会人入試枠のある美大を受けた。一校だけ受け,一校だけ受かった。誰でも入れて誰でも卒業できる類のところで,倍率はおそらく一倍を割っていた。社会人入学者には奨学金の対象が限られているという掲示を,私は入学のあとで知った。

教室の最後尾に座って,鉛筆を握り直していた。フードを被ったままスマホをいじっている十八歳の子たちの隣で,私は,木炭で石膏像のへこみを写し取ろうとして指を真っ黒にしていた。彼らは私に挨拶をするときだけ丁寧で,残りの時間は私のいない場所で笑っていた。

定期的に,講評,というものが学内にもあった。あのときと同じく,誰も私の作品について悪く言わなかった。代わりに,誰も,講評以外の時間には作品を見に来なかった。展示室の中央に置かれた発泡スチロールの塊と銀の棒のあいだを,同期生たちの談笑が日々通り過ぎていった。私の作品の隣に置いた予備の椅子に,彼らはリュックを載せ,スマホを片手におにぎりを食べていた。塊の下には,誰かの食べこぼした海苔のかけらが何日も貼り付いたままになっていた。

二年生の頃,個展というのを開いてみた。六坪ほどのギャラリーを借り,例の塊を中央に置いて,それを取り囲むようにスケッチや,制作中の写真や,私自身の経歴をパネルに貼った。会期は一週間だった。会場の賃料は,アパートのひと月分の家賃にあたる額だった。来場者は,搬入の手伝いに来てくれた業者二人を含めて二名だった。最終日の閉店時刻に,受付に置いた芳名帳に私自身の名前を書き込んで,会場を出た。

その晩から,自分のウェブサイトを作りはじめた。

経歴のページには,作品のタイトル(後付けで決めた)と,制作年と,「コンセプト」と銘打った数百字の文章を載せた。文章には,幼い頃のある特定の夕焼け,読みかけのまま置かれていた誰かの本,三歳の頃に通った公園の砂場,そういったものを,作品の核心としてもっともらしく繋ぎ合わせた。書きながら,それらが本当に起きたことだったかどうかは,もうどちらでもよくなっていた。

匿名で立項したフリー百科事典のページも作った。サブアカウントをいくつか用意して,編集を重ね,参考文献として自分のサイトを引用した。来歴の節があった。作風の節があった。受賞歴の節は,地方の小さな公募展で佳作に入った一件だけだったが,それでも,文字にしてしまえばそれは「受賞歴」と呼ばれてくれた。

数日後,「特筆性に欠ける」という理由でその項目は削除されていた。私は別のアカウントから,さらに出典らしきものを補強して再作成した。三度削除されたあとで,名前を変えたサブアカウントから出し直したものが,半年ほど残った。

検索結果の二ページ目あたりに,私のことが書かれたページがすこしずつ増えていった。私が書いたものばかりだったが,結果としては,外から見れば,等しく検索結果だった。

サイトのアクセス解析を見るかぎり,訪問者は,毎日,私だけだった。

* * *

ある夜,自分の書いた経歴を読み返していて,気がついた。

来歴の節は,「いつ」と「どこで」で出来上がっていた。何年に生まれ,何年にどこの美大に入り,何年にどこのギャラリーで何を発表したか――そういった情報の積み重ねでしかなかった。私が築き上げてきた人格は,しかし結局,私というひとつの身体が動ける範囲のいつかと,どこかとに,縛られていた。

私が選んできた場所は,全部,私の家から行きやすいところだった。

私が選んできた時間は,全部,私の起きている時間だった。

それは,作品が,私のほうに従属していることに他ならなかった。

作品にとっての「いつ」と「どこで」は,本来,私という都合からは自由でなくてはならなかった。

いま,や,未来に作品を置くということだけでは,足りないはずだった。

過去にだって,作ることができるはずだった。

そう考えはじめてから,私は眠れなくなった。

* * *

タイムマシンを作ろうと思った。

馬鹿げた話だが,そのころにはもう,何が馬鹿げていて何がそうでないかという感覚は私のなかで擦り切れていた。サイトを書きすぎていた。項目を立てすぎていた。自分自身の経歴を書きすぎていた。世界が私を記録しないので私が私のために書き続ける――その行為そのものを疑う余裕は,とうに失われていた。

ただ,今度ばかりは,作品としてのタイムマシンでは足りなかった。それも結局は,作品の周辺の側でしかないということに私はもう気がついてしまっていた。装置は,本物でなくてはならなかった。実際に時を越えていなくては,意味がなかった。

退職金を切り崩していた口座は,美大の学費と画材代と家賃とで,思っていたよりずっと早く薄くなっていた。私は,より家賃の安い物件へ二度の引っ越しを重ねた。最後にたどり着いたのは,駅から三十分ほど離れた,台所と居室との境界の曖昧な六畳のアパートだった。

地区の図書館に通いはじめた。冷暖房を自前で賄わずに済む施設として,そこは六畳の部屋よりもありがたい場所だった。物理学の入門書から,特殊相対性理論,一般相対性理論,量子力学,場の量子論の解説書まで,私は棚から棚へと手を伸ばしていった。最初の一年は,本に書かれた式の意味そのものが分からないことが多かった。閲覧席で寝入ってしまい,係員の怒声で目を覚ましたことも,数えきれないほどあった。

夜は,深夜のコンビニや引っ越し業者,治験のモニターを掛け持ちした。日中は図書館に座り,深夜は他人の荷物を運び,明け方に近づく頃にアパートへ戻る,という生活だった。炭水化物だけは切らさないようにしていたが,それすらも,月末になるとあやしかった。

二年目の冬,借りた本の数が四桁に達していることに気がついた。ノートには,量子もつれや,閉じた時間的曲線や,観測者問題や,多世界解釈――そういった概念が,私自身の手で寄せ集められ,束ねられ,ときには無理な角度で接合されていた。物理学者であれば一笑に付すであろう組み合わせを,私は,物理学者ではないがゆえに,臆面もなく書きつけていった。

アイデアは,ある晩,ひとつの形にまとまった。情報の伝達経路として時空そのものを扱うのではなく,観測の確率分布のほうを再配置する装置として捉えれば,理論上は手元の素材でも組み立てられるはずだった。私はその着想を,いずこの論文にも投稿しなかった。投稿する伝手も,書ける言語も,それを読んでくれる相手も,私にはいなかった。

三年目の冬,アパートの家賃を二度滞納した。大家のおばあさんが,米と,少しの煮物とを玄関先に置いていってくれたことがあった。私は,深くお礼を言った。装置の試作品は,このとき初めて部屋の隅に立ち上がりはじめていた。

基板は電気街の隅で見つけた捨て値のものを使った。コイルは廃棄寸前のブラウン管テレビを拾ってきて巻き直した。冷却に使う液体窒素だけはどうにもならず,あるとき美大の研究室から私はそれを少量だけ盗んだ。最後の倫理を,私はそこで使い切ったような気がした。

四年目,最初の試運転で,私は時計の針が逆さに進むのを確かに目撃した。三秒ほどの逆行だった。涙を流した記憶もあるが,それが感動によるものなのか,極度の疲労によるものなのかは,自分でも区別がつかなかった。

五年目,調整を続けた。試行錯誤を重ねるうち,部屋のなかの小さな物――鉛筆や,欠けた茶碗のかけらや,畳んだティッシュペーパー――を,一週間先や,一週間前へ送れるようになった。送ったあと,それらは確かに,私のもとへは戻ってこなかった。

次は,私自身の番だった。

* * *

完成した夜,私はいよいよ装置の中央に座る準備にとりかかった。

あれを取り出すべく,部屋の隅の棚へ手を伸ばした。

棚は,空だった。

発泡スチロールの塊も,銀の棒も,赤と青の絵の具の痕跡も,どこにもなかった。

私は部屋中を,もう一度,もう二度,もう三度と,くまなく探した。窓際のラックの裏も,押し入れの中も,机の下も,台所の流しの下まで開けてみた。それでも,どこにもなかった。

そのときになって,私はようやく,気がついた。

私はあれを,もう,置いてきたはずだった。

いつかの,どこかに,確かに置いてきたはずだった。

ただ,それがいつのことだったのか,どこのことだったのか,私には,どうしても,どうしても,思い出せなかった。

五年あまりの労力の末にようやく完成したタイムマシンが部屋の中央で置くべきものを失ったままひとり静かに鳴り続けている

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体験,と銘打った企画だった。駅前にできたばかりの現代美術館が,夏の終わりに無料の制作ワークショップというのを開いていた。私はクーラーが目当てだった。受付の女性はにこやかに,材料一式の入った白い箱と,黒いエプロンを差し出してきた。

Published: 2026.05.20

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