拍手というものは,二人目から拍手になる。
一人目のそれは,まだ拍手の音がしていない。たん,たん,という,よその家の戸を叩くみたいな乾いた音。二人目が重なった瞬間に,あれははじめて拍手になる。
この一年で,そういうことをずいぶん覚えた。
派遣の契約が切れた月に,求人サイトの隅でその募集を見つけた。《ひとびとの中に立って「はじめ」を導くお仕事です》。勤務先は駅裏の雑居ビルの三階で,ミナモト企画という素っ気ない看板が出ている。面接に現れたのは斉木さんという年齢のわからない事務員で,出がらしを疑うほど薄い茶を勧められた。
通り一遍の質問が続く面接の最後,こんなことを訊かれた。
「これまでの人生で,最初に手を挙げたことはありますか」
あっただろうか。授業でも会議でも,私はいつも二番目より後ろにいた。誰かが挙げるのを見届けて,安全になった空気の中でそっと挙げる。そういうやり方しか知らずにきた。正直にそう答えると,斉木さんははじめて笑った。
「けっこうです。先頭の味を知らない方のほうが,この仕事は長続きするものでして」
* * *
採用だった。通された事務所の壁には単価表が貼ってあった。笑い,拍手,ため息,涙。下へいくほど高くなる。いちばん下の行だけ,桁がひとつ違った。冗談の類だと思うことにした。
仕事は単純だ。指定の日時に指定の場所へ行って,誰よりも早く,指定の反応をする。それだけ。気持ちはこもっていなくていい,音さえ先に出れば,中身は皆さんが持ち寄りますから,というのが斉木さんの言だった。
依頼票には欄が五つある。日時。場所。種別。事柄。備考。事柄の欄には,だいたい私が反応するべき相手が書いてある。祝辞。閉会の辞。出棺。要するに私は,世の中の側の台本を先に読んでから現場に立つのだ。
最初の現場は披露宴だった。種別は笑い,事柄は新郎の上司の祝辞。
祝辞は三分にいちど駄洒落や冗談で折れ曲がった。私はそのたび,半呼吸だけ早く笑う。遅れてはいけない。かぶってもいけない。合図に見えるのはもっといけない。私が笑うと,一拍おいて円卓がほどけていく。
笑いたい人なら大勢いたのだろう。ただ,先頭に立つ度胸が誰にもなかっただけだ。あの日の偽物は私のひと笑いだけで,あとは全部ほんものだった。悪くない商売だと思った。
「世間はいつでも,最初のひとりを待ってるんですよ」
報告に戻った私に,斉木さんはそう言って茶を注いでくれた。
* * *
市民ホールの演奏会にも行った。種別は拍手,事柄は第三部の終わり。舞台に立ったのは音大を出たばかりだという細い人で,客席は三割も埋まっていなかった。最後の一音が消えたあと,例の,誰も動かない数秒が始まる。私は戸を叩いた。たん,たん。二人目が重なり,三人目からは数えられなくなった。細い人が,膝に付きそうなほど深くお辞儀をした。
鳴り止んでからも,掌はしばらく熱かった。仕事で出した音のはずなのに。
夏には花火大会で「たまや」と言った。事柄は二発目以降の歓声。一人目が音頭を取らないと,二発目から夜がしんとしてしまうんです,とのこと。私のたまやに,川べりの何百人がぶら下がった。頭の上で開いた大輪より,あの重さのほうをよく覚えている。
通夜の仕事もある。遺影は,長く書道教室をやっていた先生だという。祭壇の脇では五十がらみの男の人が直立していて,泣きたいのに泣く順番が回ってこない,という顔をしていた。
焼香の列で私が先に洟をすすると,まずその人の肩が落ち,右隣の老人が続き,じきに親族席が崩れた。作り物の涙で呼んだはずのものが,途中からほんものの涙で続いていく。順序が逆さまでも,悲しみは悲しみになるらしい。
帰り際,あの五十がらみの人に深々と頭を下げられた。教え子だったのだろう。私も古い教え子と思われたのかもしれない。訂正はしない決まりであった。
あとで斉木さんに聞いた。昔は泣き女という商売があって,うちはその流れであるらしい。していることに名前が付くだけで,すこし気が楽になった。
往来で,ただ空を見上げるだけの依頼もあった。事柄の欄には《通行人の滞留》。ビルの四階のあたりを見上げて三十秒,隣に一人,そのまた隣に二人。五分後には九人が首を反らしていた。見上げる先には何もない。ただ,曇り空が広がっているだけ。このときの事柄は,私より先ではなく,あとを指していた。妙だとは思った。考えるのは,仕事のうちに入っていなかった。
年明けには,商店街の呉服屋で最初の客になった。口開けのお客さんで一年が決まるんです,と店主は拝むような手つきをした。会社の金でブラウスを一着買っただけで,店じゅうが福の来たような顔をした。
困った癖もついた。私生活では,何にでも半呼吸遅れるのだ。笑うのも,泣くのも,誰かの後ろに並んでから。真夜中の台所で皿を割ったときは,白い破片を見下ろしたまま,しばらく立っていた。驚けなかった。誰も先に驚いてくれない場所では,私の驚きは出てこられないらしい。仕事のときにしか先頭に立てない身体になっていた。
* * *
そのうち,依頼票の時刻が秒単位になった。
十時十七分二十秒,商店街の花屋の前で「あっ」と声を上げること。事柄は立て看板の転倒。行ってみると,風もないのに,私が声を上げた拍子に看板はきちんと倒れた。主人は看板を起こしながら,よく気づいてくれましたね,と礼を言った。受け取っていいのかどうか,分からないまま頭を下げた。
順番が,たぶん,逆だった。
驚いた人間の体感なんて当てにならない。帰り道に三度そう唱えた。二度までは信じた。
念のため,休みの日に一人で試した。誰もいない路地で,依頼票なしの「あっ」を何度か。何も倒れなかった。それは当たり前で,その当たり前に胸を撫で下ろしている自分がいて,撫で下ろした手が妙に冷たかった。
「どうして先に分かるんですか」
事務所で訊くと,斉木さんは急須を持ち上げた。
「呼び水ってあるでしょう。井戸のポンプは,先に一杯の水を注いでやらないと,地の底の水を汲み上げられないもので。感情も同じです。誰かが先に一杯ぶんだけ出す。すると,皆さんの分が上がってくるんです」
「じゃあ,会社が汲み上げてるのは」
「あぁ,感情じゃあ,ありませんよ」湯呑に茶が落ちる。「出来事のほうです」
受け止める側の支度ができていない出来事は,起きられないのだ,と斉木さんは言う。拍手の用意のない客席で,幕は上がらない。――上がりにくい,くらいには。最後だけ言葉を薄めるのがこの人の癖らしい。このときばかりは,薄めたところがいちばん濃く聞こえた。
「順番が逆では」
「井戸の底から見れば,同じことですよ」
「底」
「もののたとえです」
* * *
事務所の奥には和綴じの台帳が積んであって,古いものは表紙が煮しめたような色をしている。一度だけめくらせてもらった。昔の依頼は涙と悲鳴ばかりで,笑いの注文が増えたのは,ここ何十年のことだという。世間が変わったのか,注文する側が変わったのか,そこははぐらかされた。綴じの奥の頁は墨が滲んで,種別が読めなくて,すこしほっとした。
その依頼票は,昨日,郵便受けに届いていた。会社の茶封筒で,いつものシフト連絡だと思って,立ったまま開けた。
種別,悲鳴。一声,なるべく長く。
日時,明朝六時五十分。
場所の欄の住所を,二度読んだ。番地まで,うちのアパートのものだった。部屋番号はない。外階段の下,とだけある。
事柄の欄は――真っ白。
一年間で,こんな依頼票ははじめてだった。起きることのほうに,まだ名前が付いていない。
備考には一行。お住まいの方の声ですと,自然に響くと思われますので,有難いです。
事務所に電話をかける。
「事柄が記入されていないようですが」
「そういった案件でして」
「依頼主はどなたですか」
「お答えできない決まりです」
「断ったらどうなりますか」
「代わりの方に,階段の下へ立っていただくだけです。それでしたら,お近くのあなたの声のほうが,ずっと自然でしょう」
斉木さんの声は,いつもの茶と同じ濃さだった。それから,こう付け足した。
「じつは,作った悲鳴では,二人目が続きません。悲鳴というのは,こう,出すものじゃなくて,抜けるものですから。……けれど,大丈夫です。あなたなら明日,ちゃんと驚けますよ」
私がなにか言い返す前に,電話は丁寧に切れた。受話器を置いて,まっさきに浮かんだのは事務所の単価表だった。冗談の類だと思うことにした,いちばん下の行。桁がひとつ違っていた理由が,今夜ようやく分かった。
一一〇番は,二桁で指が止まった。時刻と場所までは言える。肝心の,何が,の欄が空いている。空欄のままでは,通報にもならない。
誰かに聞いてほしい夜でもあった。聞いて,先に笑い飛ばしてほしかった。その一人目の当てが,この部屋にはなかった。
断って逃げる道も,ないわけではなかった。ただ,私が退いたところで,明朝,代役が階段の下に立つだけのことだ。よその悲鳴で始まる朝を,このドアの内側で二人目として聞く。そこまで想像して,やめた。一年かけて,聞く側にはもう回れない身体になっているのだった。
世間は,最初のひとりを待っている。
* * *
その朝は,薄情なほどよく晴れていた。どの窓もまだ暗くて,アパートじゅうが客席。
鉄の段を,一段,二段,と降りる。こん,こん。一人ぶんの,まだ拍手にならない音。
七段目で,下が見えた。
時刻は六時五十分。
「