「おう,辰次。いるかい」
夏も盛りの昼下がり,長屋の戸をがらりと開けて飛び込んできたのは喜助であった。辰次は畳に寝転がって煎餅を齧っていたが,この男が手ぶらで訪ねてきた試しはない。今度は何だ,という顔をした。
「いい話があるんだ。聞いてくれ」
「嫌だ」
「まだ何も言ってねえだろ」
聞くだけ聞いてやる,と辰次が渋い顔をすると,喜助は待ってましたとばかりに膝を乗り出した。
「怪談だよ,辰次。怪談で一山当てようって寸法さ」
なんでも,このところ江戸では怪談噺が随分な入りらしい。本所あたりの寄席は連日満員,版元も怪談を刷れば刷っただけ捌けるという大繁盛ときた。
「それでな,おれも一つこしらえて売り込もうと思うんだ」
「お前が?」
「おれが」
「お前の口から出る話で誰が怖がるんだ。この間だって稲荷の社で蛇が出たくらいで自分が一番騒いでただろう」
「あ,あれは虫の居所が悪かっただけだ。ともかく,おれが考えてだな——」
「考えるって,お前,何か考えたことがあったか」
「……お前が考えるんだよ」
辰次は団扇で喜助の顔を仰いだ。仰がれた方は「いい風だね」と目を細めている。この調子の良さがなければ関わらずに済むものを——と辰次は思うのだが,不思議と突き放せないのが喜助という男であった。
子供の頃からそうだった。道で転んでは辰次に泣きつき,喧嘩に負けては辰次の背中に隠れた。およそ腕っぷしや度胸とは縁遠い男であるから,辰次がいなければ早々に江戸の街に呑まれていただろう。しかし人の懐に転がり込む嗅覚だけは天性のもので,辰次がため息をつく間もなく「で,頼むよ」と既に頼み終えている。そういう男であった。
「で?何をどうしたいんだ」
「この江戸で一番怖い怪談を作る。ただそれだけよ」
「ただそれだけ,ね」
翌日から,二人は喜助の長屋に転がり込んで怪談の中身を練り始めた。
「まずだな,化け猫が出るだろ」
「出てどうする」
「人を食う」
「それで?」
「……怖いだろ?」
辰次は黙って茶を啜った。
「じゃあ,ろくろ首はどうだ」
「首が伸びてどうなる」
「びっくりする」
「びっくりするのと怖いのは違う」
「じゃあ何が怖いってんだよ」
辰次は茶碗を置き,少し間を置いてから言った。
「化け物が怖いんじゃない」
「何だい」
「人の情だ。恨みとか,報われなかった想いとか——そういうものが凝って,この世に留まっているのが一番怖い」
「ほう」
「たとえば,女だ」
「おっ,色っぽくなってきたじゃねえか」
「黙って聞け。——女がいる。男を信じて,すべてを捧げて,裏切られた女だ。殺された,とする」
辰次の声が,すこし低くなった。
「殺されたのに,誰にも知られない。弔われもしない。その女の念が,殺した男のもとに這い寄っていく——」
「いいねいいね。そいつはぞっとする」
「ただし,ここが肝だ。幽霊になって出てきちゃいけない」
「出ないのか?」
「出ない。髪を振り乱して『恨めしや』なぞ,芝居でやりゃあいい。本当に怖い話ってのはな——」
辰次は喜助の目を見た。
「幽霊が出たとも言い切れない話だ」
「何だいそりゃ」
「聞こえるはずのない足音がする。飯を盛ったら椀が二つになっている。箪笥に,覚えのない女物の着物が増えている。——だがどれもこれも,自分の思い違いで片がつくような,些細なことばかりだ」
「それが怖いのかい?」
「気のせいだと思える隙間に入ってくるものが,一番たちが悪いんだ。言い訳のきく怖さってのは——取り除きようがねえからな」
「言い訳のきく怖さ……」
喜助はぽかんとしていたが,やがて「なるほどねえ」と膝を打った。分かったのか分かっていないのか怪しいところだが,どうせ語るのは喜助の口である。仕組みが分かる必要はない。噺家は身体で覚えればよいのだ。
それから幾日もかけて,二人は話の骨を組み上げていった。喜助が口を出すたび辰次がやり直させ,辰次が語りの間を詰めるたび喜助が音を上げる。「おれにはもう無理だ」と引っ繰り返った喜助を辰次が起こし,「もう一遍だ」と繰り返す。そうしてどうにかこうにか,ひとつの怪談がかたちを取り始めた。
話の筋はこうだ。ある女が,信じた男たちに騙されて命を落とす。しかし幽霊にはならぬ。ただ,男の暮らしのそこかしこに,かつて女がそこにいた気配だけが,じわりじわりと滲み始める。男は最初それを気のせいだと思うが,やがて——。
辰次の口から出る細部は,やけに生々しかった。女の着物の柄。好んでいた簪の形。笑うときに少しだけ傾く首の角度。
「よくもまあそこまで浮かぶもんだ」と喜助が感心すると、辰次は「怪談ってのは細かいところが命なんだよ」と素っ気なく返した。
「これがもし江戸中で流行っちまったらどうする?」
「流行るわけねえだろ。化け物が出ねえ怪談なんざ、寄席じゃ打ち出し食らうのが関の山だ」
「またまた。大評判になって版元が殺到して——」
「取らぬ狸の何とやらだ。いいから続きをやるぞ」
「へいへい」
***
「で,これをどう広める」
怪談が仕上がった晩,ひとしきり喜んだあとで喜助は腕を組んだ。
「版元に持ち込むか?」
「噺ってのは,目で読むもんじゃない。耳で聞くから怖いんだ」
「じゃあ寄席——」
「百物語をやる」
辰次の目が,すっと細くなった。
「このところ方々で催されているだろう。百の怪談を語って,行灯を一つずつ消していく。百本目が消えたら,本物が出る——あの百物語の大詰め,百番目に,この話を据える」
「おおっ,そいつは粋だ!」
「ただし,ちゃんとした客を呼ばなきゃ意味がない。話好きで,口の軽い,顔の利く連中を」
「そういうのはお前の方が詳しいだろ」
「ああ。心当たりがある」
辰次は客の頭数にえらくこだわった。話し手は寄席仲間を当たればどうにかなるとして,聞き手の方は辰次が一人で声をかけて回ると言う。
「名前を教えてくれよ。おれも手伝うからさ」
「いい。おれがやる」
「水くせえな。おれだって少しは役に立つぜ?」
「お前は語りに集中しろ。それが一番大事だ」
喜助はぱちぱちと目を瞬いたが,やがて「そうかい」と引き下がった。辰次がこういう目をするときには何を言っても無駄なのだ。
手筈が整ったのは,盆も間近の頃合いであった。
場所は深川の料亭,奥座敷。青い紙を貼った行灯が百,隣の間にずらと並べられている。語り手が一つ噺を終えるたびに隣室へ参り,行灯をひとつ吹き消す。百物語の作法である。灯りが減るほどに場に怪異が近づき,百本目が消えたとき——この世ならざるものが姿を見せる。少なくとも,そういうことになっている。
三十余人の客,喜助は控えの間で足を崩したり正したりしていた。
「辰次,おれ,駄目かもしれねえ」
「何を今更」
「声が震える。手も震える。膝も」
「全部震えてるじゃねえか」
「だから困ってるんだ」
辰次は喜助の肩をぽんと叩いた。
「お前は馬鹿で調子がいい。そのまんま喋ればいい。怖がらせようと気張るな。ただ,目の前で見てきたことを語るように喋れ。それだけでいい」
「見てきたことって——見てねえんだけど」
「見たと思え」
喜助はぼりぼりと頭を掻いた。それから,何かを言いかけて,やめた。
「どうした」
「いや——うまくやるよ」
百物語が始まった。
最初のうちは客も余裕のもので,語り手がひとつ話すたびに「おうおう」だの「こりゃあ怖い」だのと賑やかなものであった。行灯が三十,四十と消えるにつれ,座敷はじわじわと暗くなっていく。笑い声が減り,咳払いひとつがやけに大きく響くようになった。
五十。六十。七十。
残りの行灯が三十を切る頃には,隣の間から漏れる灯りもわずかになり,客の顔は互いにろくに見えない。声ばかりが闇に浮いている。
八十。九十。九十五。
——九十九。
控えの間に,辰次がすっと顔を出した。
「——次だ」
喜助は唾を飲み込んだ。辰次は穏やかに笑い,小さく頷いてみせた。
いつもの辰次だった。
いつもの辰次のはずだった。
百番目の語り手として,喜助は座敷に出た。
たった一つ残った行灯の灯りが,青白く揺れている。三十余人の客は沈黙して座っており,顔という顔が翳りのなかに沈んでいた。
——大丈夫だ。見てきたことを語るだけ。
喜助は,静かに口を開いた。
「——ある女がおりました」
声は,自分でも驚くほど落ち着いていた。
「器量よしで,気立てもようて,惚れた男のためなら何でもするような,そういう女でございます」
辰次に仕込まれた通りに,低く,ゆっくり。
「この女,ある男を——いえ。幾人の男たちを信じました。信じて,尽くして,信じ抜いた。それがどう報いられたかと申しますと——」
言葉が,ひとりでに流れ出した。
まるで口が覚えているかのようだった。辰次と幾日も幾夜も繰り返した稽古が,喜助の体に染み込んでいたのだ。声を落とす間。息を詰める拍子。語尾を呑む呼吸。すべてが辰次に教わった通りに身体から出ていく。
女の暮らし。女の笑い方。女が男たちに尽くした日々。そして——裏切り。
喜助は語りながら,客の方をちらと見た。
闇のなかで,眼ばかりがいくつも光っている。
前の方に座った何人かの男の顔が——行灯の青い灯りのせいか——ひどく強張っていた。怖がっている,というのとは,どこか違った。何かを思い出したような顔に見えた。
まだ話は中ほどである。女はまだ生きている。笑って,信じて,男たちに尽くしている。怪異の気配などどこにもない。
喜助の口は止まらなかった。止まらないというよりも,止め方を忘れていた。この怪談は自分の身体を通り抜けていくだけで,喜助のものではない。最初から一度たりとも,喜助のものではなかった。
「——女は,ある夜,連れ出されました」
前方で,誰かが小さく喉を鳴らした。
暗い座敷のなかで,それは不思議なほどはっきり聞こえた。
「どこへ連れていかれたか。どうされたか。——それを知る者は,この世に果たしているかどうか」
座敷の空気が,変わった。
つ,と。糸が張り詰めるように,何かが変わった。
女が消え,男の暮らしに兆しが忍ぶ。箪笥に覚えのない小袖。膳につく二人分の箸の跡。畳に残る白粉の移り香。どれも気のせいで済む。気のせいで済むのに,男は夜ごと痩せ——やがて自分の所作のなかに,死んだはずの女の仕草が交じっていることに気がつく。
客のひとりが,声を漏らした。
それは悲鳴ではなかった。うわ言のようにこぼれた二言三言は,人の名に聞こえた。
——ああ,こいつらだ。
喜助は,そう思った。
「——女の恨みは,消えませなんだ」
喜助の声が,ほんのわずかに変わった。辰次に教わった通りの声ではなかった。もっと低い,喜助自身の腹の底から出る声だった。
「恨みは声を持たず,姿を持たず,ただ——」
行灯の灯りが,ゆらと揺れた。
「——知る者だけが,震える」
静寂。
闇のなかで,座敷の隅に辰次の目が光った。
喜助と,目が合った。
長い,ほんの一瞬の,長い沈黙であった。
辰次の顔に,かすかな——本当にかすかな——困惑が走った。何に対する困惑なのか、喜助には分かった。
喜助は笑った。喜助は笑った。いつもの,どうしようもなく人懐こい笑い方だった。
「おれだってたまにゃ考えるんだ」
声は座敷の誰にも聞こえない。ただ唇がそう動く。
辰次は笑った。辰次は笑った。ごく小さく,ほとんど闇に溶けるような笑い方であった。
喜助は行灯の前に膝をついた。百本目。これを吹き消せば,あとは闇だけが残る。百物語の決まりごとでは,ここから先は——人ならざるものの領分である。
少なくとも,そういうことになっている。