八千四百円の巡礼

節子と二人で東京に来るのは三年ぶりだった。

前は豊洲で寿司を食べ,スカイツリーを下から見上げて——上には登らなかった,節子が「並ぶの嫌」と言ったので——新幹線で帰った。今回は「東京ぶらり怪談バスツアー」。都内の怪談ゆかりの場所を一日かけてバスで回り,夕方に東京駅で解散。税込み八千四百円。節子が旅行サイトで見つけてきた。

「怖い話好きやったっけ」

「好きちゃうけど,一日バス乗ってるだけやし,楽やん」

節子の旅行選びはいつもこの基準で,楽かどうかが全てに優先する。歩きたくない。階段も嫌。足が悪いわけではなく,ただ嫌い。中学からの四十年の付き合いでこちらも心得ているから,異論はなかった。バスに乗って降りて,ちょっと見て,また乗る。それでええやん,と節子は言う。それでいい。私たちはそういうふうに四十年やってきた。旅行も,それ以外のことも。どちらかが行こうと言い,どちらかがそれでいいと言う。だいたい言い出すのは節子で,いいよと言うのが私。

集合は東京駅八重洲口の朝九時。三十人弱。中型バスの前でガイドの男性がにこにこ立っていた。三十代,声がよく通る。首から提げたプレートに名前が書いてあったが忘れた。

客層はばらばらだった。定年後くらいのご夫婦が何組か。高校生くらいの女の子と,母親らしきひと。若いカップル,ひとり参加の若い男。大学生のグループが後ろの席で固まっている。

私たちは後ろから三列目。窓側が節子。座るなり靴を脱いで持参のスリッパに履き替え,鞄からペットボトルのお茶と柿の種を出して膝の上に並べた。遠足の小学生のようだが,五十四歳。

バスが動き出した。

車中でガイドが怪談の歴史を話し始めた。江戸時代,武家屋敷で百物語が流行ったこと。行灯を百本並べて怪談を一つ語るごとに一本ずつ消していき,百本目が消えたら本物の怪異が現れるという趣向。実際には九十九で止めるのが作法で,百本目を消す勇気のある者は滅多にいなかったこと。消したらどうなるかは諸説あるが,共通しているのは「ろくなことにならない」ということだけだという。

「お客様の中で,怪談お好きな方いらっしゃいますか」

何人か手が上がる。大学生のグループが元気よく挙げた。節子は挙げない。柿の種を噛んでいる。

「では逆に,怖い話がちょっと苦手という方」

節子が手を挙げた。ガイドが笑って「大丈夫ですよ,歴史と伝説が中心ですから。お化けは出ません。たぶん」。

「たぶんて」

節子が私にだけ聞こえる声で言った。

「出たらどないすんの。バスまで走らなあかんやん」

「走ったらええやん」

「走るの嫌やねんて」

柿の種をもう一掴み。

* * *

最初の目的地は四谷の寺。有名な怪談の舞台。ガイドの説明を聞きながら境内を歩いたが,節子は石段を三段上がったところで止まった。

「もうあかん」

三段で。下で待っていた。戻ってきたら紫陽花の写真を撮っていた。花にだけは目がいく。

「きれいに撮れたわ」

画面を見せてくれた。構図はめちゃくちゃだったが,色は確かにきれいだった。

バスに戻ると,前のほうの席で声が聞こえた。壮年の男性がガイドに話しかけている。腕を窓枠に乗せて,外を指している。

「この辺もだいぶ歩いたなぁ」

「あ,歩かれたんですか」

あの件だ。

「歩いてる間はそんなに辛くなかった。帰ってきてからの筋肉痛がひどかったけど」

「それはすごい」

何人かが笑った。

節子が肘を突いてきた。

「あれやろ。制服のやつ」

去年のことだ。全国のチェーン店の店員やら警察官やら学生やらが,制服を着たまま一斉に歩き出した。月曜の朝から始まって,一週間テレビが持ちきりだった。歩いている人間は暴れるわけでもなく,ただ歩く。止めても放すとまた歩く。「すみません」とか言いながら歩く。全員がどこかの丘だか野原だかに向かっていて,着いたら座って,帰ってきた。節子の隣の家のおばちゃんの孫——たしか高校二年——もセーラー服のまま歩いて,帰ってきて「お風呂入りた」とだけ言ったらしい。理由は分からないまま,いつの間にかニュースにならなくなった。

「結局あれ,なんやったんやろな」

「さあ。分からんのやろ」

「分からんもんばっかりやなこの世は」

節子はお茶を飲んだ。バスが走り出す。窓の外を東京の街が流れていく。信号のたびに横断歩道を渡る人の群れ。スーツ,Tシャツ,作業着。コンビニのエプロンをつけた若い男がビルの脇で煙草を吸っている。去年の今頃なら歩いていたかもしれないし,たまたま休みだったかもしれない。制服を着ているかいないかで分かれた。着ている側に選択の余地はなかったらしい。着ていない側にも,とくに何もなかった。私は着ていなかった。節子も。

「なあ」

「何」

「お昼ついてるんやろ」

「深川めし弁当やて」

「ええやん。もうちょっと腹減ってきた」

朝も駅弁を食べていたはずだ。新幹線のホームで買った幕の内。それを食べ終わるより早く寝て,品川で起こした。

次は本所。七不思議ゆかりの場所を歩いた。ガイドが置行堀の話をしてくれた。夜中に堀のそばを通ると「おいてけ,おいてけ」と声がする。

「何を置いてけ言うねん」

節子が真面目に訊いた。

「魚です。釣った魚を置いていけ,と」

「ケチな幽霊やな」

ガイドが笑った。節子は笑わなかった。本気で言っている。この人は幽霊にも実用性を求める。

番町。皿屋敷の旧跡。井戸はもう残っていない。跡地の碑のまわりに紫陽花が咲いていて,節子はまた写真を撮った。四谷のと合わせて三枚目。紫陽花ばかり増えていく。お皿を数える幽霊の話はさすがに知っているらしい。

「一枚足りん言うて怒ってはるやつやろ。うちも旦那がよぉ壊すさかい,何枚も足りひんわ」

四箇所目は浅草のはずれ。降りたところに焼きそばの屋台があった。四百五十円。節子は迷わず買った。ツアー中であるという認識がないのか,認識したうえで無視しているのか。パックを片手にガイドの説明を聞いている。ソースの匂いのなかで聞く怪談はいまひとつ怖くなかった。焼きそばの匂いは怪談の天敵かもしれない。

降りて,十分うろうろして,写真を撮って,戻る。繰り返し。節子は降りるたびにスリッパから靴に履き替えるのを面倒がったが,降りればちゃんと見た。看板は全部読む。写真も撮る。怪談そのものよりも寺の瓦屋根だとか道端の地蔵だとか,そのへんの物に目がいくのは中学のときから変わらない。授業中は寝ていたくせに,窓の外の電線に止まった鳥だけはじっと見ていた。そういう人。

バスの中では客同士が打ち解け始めていた。

「私も歩いたんですよ。ナースシューズがぼろぼろになっちゃって」

「おれも安全靴のまんまだった。鉄板入ってるから重くてね」

ブレザーの女の子が小さく「わたしも」と言った。母親が「この子もあの時,学校から歩いちゃって」と苦笑した。

後ろの席から年配の女性が身を乗り出した。六十代。きりっとした顔。首元にチェーンのネックレス。

「私は掛川で働いててね,一番乗りだったのよ」

「懐かしいなぁ。ほんとに綺麗だった」

バスの中が静かになった。

歩いた人と歩かなかった人が同じバスに乗っている。同じ怪談を聞きに行く。妙な光景だが,このバスの中では誰もそのことを気にしていなかった。

節子が窓の外を見ている。東京の空はビルの間に細く切り取られている。

「なあ」

「何」

「あのおばちゃんの話,ええなと思わん。丘で座って海見て帰っただけって」

「ええか」

「何もないとこに歩いて行って,何もせんと帰ってくるって,なんか——旅行やん。おおがかりな」

「おおがかりやなぁ」

「まあこのバスツアーも似たようなもんか。何もないとこ見に行って何も持って帰らんっていう」

昼は深川めし弁当。バスの中で食べた。アサリの炊き込みごはんに漬物と煮物。弁当の蓋を開けたときの醤油と生姜の匂いがバスの中に広がって,三十人弱が一斉に蓋を開けている光景はなかなかのものだった。思ったよりうまかった。節子は三分で食べ終わった。蓋を閉じ,もう一度開け,隅の沢庵を一切れ食べ,蓋を閉じ,また開けて煮物の汁を飲み,ようやく閉じた。

「さっき焼きそば食べたやん」

「あれはあれ。これはこれ」

節子はお茶を飲み干した。窓の外を見る。道の向こうにコンビニがあった。制服を着た店員がガラス越しに見えている。品出しをしている。棚に商品を一つずつ並べている。ペットボトルの列がきれいに揃っていく。去年はあの制服のまま歩いたのかもしれない。あるいはたまたまあの日は私服で,歩かなかったのかもしれない。分からない。分からないが,あの制服は今日もあの人の体の上にある。信号が変わって,バスが動いた。コンビニが後ろに流れていった。

* * *

五箇所目は池のそばの神社。蚊がひどかった。境内に入って三十秒で腕を二箇所やられた。節子は「蚊は怪談より怖い」と本気の顔で言って,石段の途中から引き返した。ガイドが池にまつわる入水の話をしていたが,節子はバスの中で足首を掻いていた。赤くなっている。薬を持ってきていないらしい。

六箇所目は橋のたもとの小さな祠。ガイドが身投げの話をした。橋の欄干に手をかけて振り返った女がいた,という話。蚊に刺された跡が痒くて集中できなかった。節子は祠の写真を撮って「まあまあ」と言った。祠が,なのか怪談が,なのかは訊かなかった。バスに戻って冷房の風に当たりながら,蚊の跡を冷たいペットボトルで押さえていた。

* * *

最後の目的地。午後三時過ぎ。

住宅街だった。低層マンションと一戸建てが並ぶ通りの角に,小さな公園がある。ブランコ二台,滑り台,砂場。低いフェンス。入口の脇に案内板。奥に腰の高さほどの石碑が一つ。欅が一本,公園の真ん中に影を落としている。

「こちらが本日最後のスポット,百物語之跡公園です」

ぞろぞろとバスを降りた。節子は靴の履き替えにまた手間取り,最後から二番目。最後はブレザーの女の子で,母親に手を引かれている。

「公園やん」

「公園やて言うてたやん」

「言うてたけど思ったより公園やん」

公園は公園だった。午後の陽射しがブランコの鎖を光らせ,隣の家のベランダから洗濯物を取り込む音がする。どこかで風鈴が鳴っている。砂場のそばに鳩が三羽。節子はそちらを見た。

「太ってんなぁ」

東京の鳩は大阪の鳩より太い。根拠はない。

ガイドが案内板の前に立った。客が半円に集まる。節子と私は後ろ。節子は日傘を差している。額に汗が光っている。拭かない。

「この場所には江戸時代の中頃まで,深川でも指折りの料亭がありました」

案内板を示す。「松波亭」。

「この松波亭の奥座敷で,ある夏の夜,百物語が催されました。主催した人物は分かっていません。語り手の数も正確には分からない。客を三十人以上集めた大きな催しだったということと,行灯を百本並べて本式にやったということだけが伝えられています」

ガイドの語りは案内板の読み上げではなく自分の言葉で,場数を踏んでいる声だった。

「百の怪談が順に語られます。ひとつ終わるごとに隣の間の行灯をひとつ消す。座敷がだんだん暗くなる。最初のうちは客も余裕があって,一つ語られるたびに賑やかだったでしょう。それが五十を過ぎたあたりから笑い声が消え,七十を超えると咳払いひとつが響くようになる。九十を超えたらもう隣の人間の顔も見えない。声だけが闇の中に浮いている」

大学生が身を乗り出した。

「九十九本目が消えて——残り一本。百話目です。最後の怪談を語ったのは若い男だったと伝えられています。名前は残っていない。ただ,若い男だった,と」

声がわずかに落ちた。

「この男が語った怪談が,のちに『深川の女』として知られることになる話です」

案内板にも同じ題名。客の何人かがスマートフォンを構えた。

「——深川に一軒の呉服屋がありました。主人は若く商才もある。ところがこの男,外に女を囲っておりまして,家の女房が邪魔になった。ある雨の夜,主人は女房を堀に突き落とします。翌朝,番屋には女房が家出したと届けた。堀は深い。誰も疑わなかった」

案内板にちらと目を落とし,また客のほうを向いた。

「三日後の夜。主人が帳場で算盤を弾いていると——裏の堀のほうから声がする。女の声。何を言っているかは聞き取れない。気味が悪くなって戸を閉めた。翌晩も声がした。もう少しはっきりしていて,主人の名を呼んでいる。三晩目に堪りかねて堀を覗くと——水面に女房の顔が浮いている。目が開いている。白い。水に浸かったまま腐りもせずに,じいっとこちらを見上げている」

向こうで,鳥がばさばさと飛び立つ。

「主人は逃げ帰ります。翌日,堀を人に浚わせたが何も出てこない。ところがその夜からが本番です。表の暖簾が朝になると裏返しになっている。反物を広げると,どの生地にも水の染みが滲んでいる。堀の水の,あの泥臭い染み。番頭が辞め,丁稚が逃げた。主人は一人になった」

一拍。

「主人は囲っていた女のもとへ逃げ込みます。しかし翌朝,部屋の水瓶がひっくり返っている。畳が水浸し。女が悲鳴を上げた。鏡です。鏡に映っているのは自分の顔ではない。堀に沈んだ女房の顔だった」

看護師の女性が腕を組んだ。

「囲い者の女は翌日から寝込み,七日目に息を引き取ります。死に顔はやはり女房に似ていた。——主人は半狂乱で奉行所に駆け込み,すべてを白状しました。堀を改めて浚うと女房の体が上がった。着物は泥だらけで顔は崩れていたが,髪だけがきれいだった,と。主人は翌年処刑されています」

蝉が鳴いている。公園の向こうの,たぶん欅の上のほうから。

「——というのが『深川の女』です。この怪談が百話目として語られ,最後の行灯が消された直後,座敷の闇の中から水の匂いがしたと言われています。堀の水の匂い。翌朝,座敷にいた客の何人かの着物に,泥水の染みがついていた——」

「ひえー」。大学生。ガイドが笑った。

「伝説ですけどね。ただ,この百物語がきっかけで深川界隈に怪談ブームが起きたのは確かなようです。この後しばらく,寄席で怪談が連日満員だったそうですよ」

ガイドが一礼して,「では,ごゆっくりご覧ください」と言った。

客が散っていった。案内板をスマートフォンで撮る人。石碑を見に行く人。大学生は石碑の前で自撮りを試みていたが,石碑が低くてうまくいかない。一人がしゃがみ,一人が腕を伸ばし,もう一人がピースをしている。若い。女の子は母親と公園の奥を歩いていた。ブランコのそばで立ち止まり,鎖に手を触れた。揺らさない。ただ触れている。

案内板をもう一度読んだ。活字で印刷された『深川の女』のあらすじ。呉服屋の主人が女房を堀に沈め,幽霊が怪異を起こし,主人が追い詰められて自白する。因果応報。筋が通っている。悪いことをした人間のもとに怨霊が現れて,報いを受けさせる。怖い話というのはこういう形をしていると思った。案内板の下のほうに小さな字で参考文献が並んでいる。江戸の随筆やら地誌やらの名前が三つ四つ。どれも読んだことはない

節子はベンチにいた。日傘を畳んで,鳩を見ている。三羽。さっきのと同じやつ。一羽がふくらんで,縮んだ。鳩の呼吸を見たのは初めてかもしれない。生きものの体が膨らんで萎むのを,あんなにはっきり見ることはふだんない。

「面白かった?」

「まあまあ」

「怖かった?」

「別に」

「好きちゃう言うてたもんな」

「うん。でもまあ来てよかった。涼しいとこ座れるし。鳩おるし」

欅の木陰。確かに涼しかった。風が枝を揺らして,影がベンチの上でゆらゆら動いている。節子がその影を手で追いかけるように,膝の上で指を動かした。意味はない。たぶん。

「戻ろか」

「うん。靴履き替えんのめんどいなぁ」

「スリッパのまま乗り」

「そうする」

バスのほうに歩き出した。スリッパのぱたぱたいう音。出口は案内板のすぐ横。節子の歩みがすこし緩んだ。

案内板。大きめの活字。呉服屋の主人が女房を堀に突き落とし,幽霊が怪異を起こし,囲い者は鏡に女房の顔を見て死に,主人は自白して処刑され——。

節子が足を止めた。

案内板を見ている。

「どした」

「ん」

「暑いし,早よバス乗ろ」

節子は案内板の文字を見ていた。数秒だったと思う。横顔はいつもの節子だった。眉が寄るわけでもなく,口を結ぶわけでもなく,四十年見てきたのと同じ横顔。午後の陽射しがアクリル板を白く飛ばしている。

「全然ちゃうわ」