余熱

六月の水曜日,有給だった。

歯医者が十時半。それだけで一日を空けたのは半端だったが,午後に何かを入れる気力がなかった。妻には「歯医者のあと少し歩いてくる」と言った。「傘持ってきなよ」と妻が言ったので持っていった。なるほどたしかに曇っている。

クリニックの待合室にはもう一人,椅子の女性が雑誌をめくっている。ページの端を指で擦る癖があるらしく,かさ,かさ,と小さな音がする。おれにも何かそういう癖があるのだろうが,自分の癖は自分では見えない。

名前を呼ばれた。椅子に座って,口を開けた。左の奥歯。麻酔を打たれてしばらくすると,唇の左半分から感覚が引いていった。治療は二十分ほどで終わったが,何をされたかはよく分からない。振動だけが顎の骨を伝わってくる。振動は来るのに痛みが届かない。あるはずのものがない。

外に出ると空気がぬるかった。歩き出して,唇の左側が膨らんでいるような気がして指で触った。膨らんでいなかった。指は唇に触れているのに,唇は触れられていない。同じところなのに,行きと帰りで届くものが違う。

帰り道を少し変えた。時間があった。

商店街を抜けて一本裏に入ったところに小さな公園があった。通りかかるのは久しぶりで,滑り台が塗り替えてあった。前は何色だったか思い出せない。

ベンチが二つ。片方に人が横になっていた。上着を顔にかけて寝ていて,靴を脱いで足元に揃えてある。もう片方が空いていた。

座った。麻酔が残っているうちに食べると頬の内側を噛む。前にやった。待ったほうがいい。

ベンチの木が温かかった。曇っていて日は出ていないのに温かい。さっきまで誰かが座っていたのか。確かめる方法はなかった。

公園の向こうに雑居ビルが見える。上のほうの窓が開いていて,中から何かの音がした。ぱち,ぱち,と乾いた音。何の音だろうと思って,少し考えて,やめた。

隣のベンチの人が寝返りを打った。上着がずれて,口元がすこしだけ見えた。唇が動いている。声は聞こえない。

しばらくして,麻酔が薄れ始めた。一気に戻るのではなく,境目のない戻り方をする。どこまでが痺れていてどこからが感じているのか,分からないまま,全体がゆっくり浮き上がってくる。気がつくと,もう普通になっていた。

立ち上がって,帰った。けっきょく雨は降らなかった。

* * *

妻が帰ってきて,「歯どうだった」と訊くので「すごい削られた」と答えた。「痛かった?」「麻酔してたから分からん」「ふうん」。

夕飯はありあわせにした。昨日の味噌汁を温め直して,卵を焼いた。おれが焼いた。フライパンに油を引いて,四つ割って,適当な野菜と一緒に箸でざっと混ぜる。ひっくり返すのが毎回遅いらしく,今日も端が少し焦げた。

食べた。味噌汁が奥歯を通ったとき,削った場所がじわりと沁みた。

皿を洗った。蛇口から最初の一秒だけぬるい水が出た。管の中に残っていたぶんだろう。すぐに冷たくなる。

風呂に入った。湯に浸かると,歯がまた少し沁みた。沁みて,治まった。

目を閉じた。湯の温度がゆっくり下がっていく。

もう少し浸かっていることにした。