春の取り付けの折には,私の勤め先でも昼飯をそこそこに銀行へ走る者があった。戻って来るなり窓口の不手際を怒るのだが,引き出した銭の使い道となると,誰も口にしない。
私は並ばずに済んだ。並ぶほど預けていなかったのである。人の難儀を眺めていられたのも,まあ,それだけのことだ。
七月半ば,神戸から西へ二時間ばかり汽車に揺られ,川沿いの小駅で峠越えの乗合自動車に乗った。保険金の請求を一つ調べに行く。胸の隠しに本社電報の写し,鞄に罫紙と印肉。乗合は坂を三つ曲がったあたりで息が切れ,峠の途中でとうとう動かなくなる。運転手が鼻先へ水を掛けるのを潮に,客は幌の下から逃げ出した。
しずりだけは谷側へ下り,瀬の飛沫を顔に受けている。呼び戻しかけて,よした。戻って来た袖がひやりとするので,もう少し腕を寄せていたら,黙って肘で押し返された。
「お連れさんは,暑うないのんか」
向かいの肥えた女が団扇を差し出した。しずりは要らぬ,とも言わず,谷を見ている。
「けったいな別嬪さんやこと」
女は気を悪くするでもなく,自分の胸を煽ぎ直す。その風がこちらにも少し届いた。目はもう,鞄に付けた会社の札を読んでいる。
「保険屋さんだっか。ほんなら,柴の井さんとこやな」
「ええ,まあ,手続きのことで」
「真柴の旦那さん,まだ焼いてももらえんのやろ。半月も氷の上やいうて。気の毒になあ」
旦那の名は縫之助。明治二年生まれで,数え五十九になる。奥へ引き籠もってから二十年近く,人前へ出たことのない人だという。女は暑い暑いと言う間へそれだけ挟み,また私を見た。
「何を調べますのん」
「型どおりの検分です」
「はあ」
もう少しましな返事はないものか。自分で思うくらいだから,聞いた女はなおさらだろう。団扇を脇へ挟み,水筒を出してしまった。しずりは相変わらず横を向いている。こういう時に助け舟を出さないところは,長く連れ立っていても有難い。
峠を越えると,玖上の町が見えた。川の曲がる内側に,白壁の蔵が寄り合っている。町へ下りるにつれて埃が湿り,酒粕のような甘酸っぱい匂いがした。停留所の爺が,頼む前に鞄を担いだ。
「冷や蔵か。川裾や。こっち来なはれ」
川に張り出す石垣の上に蔵があり,その隣が番小屋である。半ば開いた戸の隙間いっぱいに,蜘蛛が巣を張っていた。爺は鞄を置くと,汗の浮いた額をごしごし擦りながら,なかなか手拭いを下ろさない。銭を出すのを待っているのだと,ようやく気づいた。
九本目の,小指がうまく取れなかった。
墨をつけて押すと滑り,力を抜くとかすれる。死人の手は,こちらの都合に少しも応じない。手順の紙を見直しては小指の根を親指で支え,二枚を駄目にした末に,三枚目でどうにかなった。
入口に立つ若い巡査は,荻野という。先ほどから同じ頁を開いて待っており,私が筆を置くのを見て,やっと帳面を閉じた。
「印南さん,済みましたか」
「九本は。右の親指は,これでは取れません」
戸板の下に氷を組み,仏を白布で包んで寝かせてある。筵戸の表は蝉の声ばかりで,入って来た時には涼しかった蔵も,今は膝が痛いほど冷える。右手を持ち上げると,親指の腹だけが飴色に縮んでいた。指の畝はもうない。
「診断書をもう一遍,読んでもらえますか」
町医者の依田が書いた紙には,多年の病による衰弱死,六月二十八日未明,とあった。前夜,枕元の行灯を倒して右拇指に火傷を負った,との添え書きもある。
返して見た手の甲はきれいで,袖にも焦げはない。
「行灯の油が,ここだけに掛かったんですな」
荻野は紙を見た。仏の手は見なかった。
支店が先回りして蔵も巡査も手配してくれたお蔭で,着くなり仕事に取り掛かれた。もっとも,指の写しなら講習で二度取ったきりである。その程度の者でも,会社から来たと言えば,町の巡査を入口に立たせておける。失敗した二枚は人に見られぬよう畳み,胴巻きへ差した。
「御身内はおいでになりませんか」
「初めの日には若旦那が。氷のことは,氷屋さんに任せてあるそうです」
「顔を確かめた方は」
「弟さんと,若旦那と,通いのタヅさんです。昔から世話をしてはった婆さんで」
縁台へ請求の書類を広げる。死亡届は六月二十八日,請求は七月四日。六日でよくこれだけ揃えたもので,不足は見当たらない。証券の縁には貸付係の付箋が二枚残り,明治四十五年契約,昭和七年満期,三千円とある。裏へ続く細かな約款のうち,支払義務は二年を経過すると時効で消滅する,という一条に目が留まった。
表へ返す。被保険者,真柴縫之助。承諾の欄には署名がなく,墨の拇印が一つ捺されている。
そこへ氷屋の親爺が麦湯を持って来た。筵を頭で押し上げ,盆を傾けまいと,腰を妙に低くして入って来る。
「まだ冷えとるな。晩にも足しときまひょ」
「お願いします。費用は,どなたへ」
「柴の井さんや。払うことは,きっちりしてくれてや。値切られたこともない」
聞かぬことまで言って,親爺は戸板の下を覗いた。氷の一つを向こうへ押し,溜まった水を流す。麦湯の盆を置いた所には,手の水が残った。身内でもない者が,半日,この人の指を墨で汚している。何をいつまでやっていると,誰か一人くらい怒りに来てもよさそうなものだ。
仕舞いに顔の布を返すと,痩せた頬には髭がきれいに当たり,髪も撫でつけてあった。唇の隙から覗く前歯が白い。長患いの五十九にしては,減っていない。
布を掛けてから,もう一度開けた。
荻野が身を寄せたが,私は何も言わずにおいた。歯を見慣れた商売ではない。見えたことだけを書いて,写しを数え直す。やはり九枚だった。
しずりは蔵陰の石に腰を下ろしていた。筵戸の下から漏れる冷気の所へ,草履の先を出している。
「終いかえ」
「長うなってしもた。宿を取ってから,氷屋を」
「先に氷じゃ」
「明日の朝,必ず連れて行く」
しずりは立ち上がって尻の埃を払うばかりなので,承知と受け取っておいた。
川沿いの宿の帳場にいたのは,乗合の女だった。
「あれ,保険屋さんやないの。今日はよう揺られましたなあ」
自分が揺すったような口振りで迎え,女中へ二階を命じる。宿帳に神戸の住所と印南眞平と書くと,連れの名も,と筆先が欄を示した。しばらく考えて,しずり,とだけ記す。それで女将に不足はないらしい。
部屋へ運ばれた荷は,しずりの包みが窓の柱元へ,私の鞄が入口へ置かれた。宿を替えるたび,どちらが言わなくてもそうなる。
飯はうまく,茄子の漬物だけで二杯いけた。女将に無理を言って氷水を一杯用立ててもらえば,しずりも匙を取り,縁から崩して食べている。
「ええ宿やな」
「主は飯のお代わりが出来れば,どこでもそうじゃ」
言い返そうとしたが,ついこの前泊まった宿のことを思い出し,やめた。
床へ入る前,電報の写しを取り出した。荼毘見合わせられたし。これだけの指図を受けて,あの家はもう半月,融けるたびに氷を買っている。会社は冷やせとは言わない。ただ,焼くなと言ったきりだ。
窓を開けたしずりの傍に,食べ終えた皿がある。底に残るのは,匙でも掬えぬほどの氷だった。水になってしまう前に,しずりはそれを指でつまんで口へ入れた。