翌朝,帳場で少し長くなるかも知れぬと持ち出すと,女将の目は奥の掛け札へ行った。
「秋には仲買さんで埋まりますけどな。今は空いとるさかい,どうぞ」
柴の井へ新酒を利きに来る客だという。払いは月末,宛名は会社でよいとのことで,まだ濡れている硯を棚から出し,女将は逗留帳に私の名を加えた。
蔵人の名ばかり並ぶ札もある。出替りの祝い膳は蔵元がまとめて払うが,誰がどれだけ飲んだかは,別にしておかねばならぬらしい。
「お宅も柴の井さんとは,長いんですか」
「長いことは長いだす。……朝のお汁,冷めまっせ」
促されて戻った膳の上で,汁の麩がよく膨れていた。箸で押せば,まだ熱い汁を吐く。
橋の袂の薬種屋を訪ねると,主人は薬研に手を掛けたまま話し出した。診断書を出して尋ねても,病人より先に問屋の払いが気に掛かるらしい。
「春から現金,現金ですわ。うちだけ掛けで売るわけにも行かんし,置き薬まで引き上げに回っとる。嫌われる役ばっかりで」
後ろの棚にも抜けがある。主人が大瓶のあった所を示そうと目薬の小箱をどけると,埃の中に丸い跡が出た。
「臭素加里をよう売りましたんや。あの家へは,切らさんように持って行ったもんです。……もう六年目かいな。ぱったり出んようになりましてな」
「薬を替えたんですか」
「さあ,先生のことは」
「何月頃から」
主人の手で薬研の輪が一度転がり,乾いた音を立てた。中には薬が入っていない。
「春でしたな。大正十一年の。棚の整理をした時分やさかい」
そこから話は孫の胃へ移る。奥へ声を掛けた主人は返事も待たず,この胃散を飲ませたらけろっと治った,と一包差し出した。こうなると,買わずには帰りにくい。釣りを受け取る時には,目薬の箱は元の所に戻っていた。
氷屋が暖簾を出すのは昼前で,冷や蔵の親爺の弟がやっている。顔は兄弟よく似ていたが,弟の下唇の出ているのが,黙っていると怒ったように見える。
しずりは暖簾をくぐる前から,削り台を見ていた。
「蜜は」
柄杓を持った弟の手に,首を横へ振ってみせる。それで注文は済んだ。私も金時を頼む。付き合いである,と誰に聞かれもせぬ言い訳を考えていた。甘い物を頼む時には,どうもこういう見栄が出る。氷は粗い所から先に崩れ,しずりの皿には芯だけが残ってゆく。二杯目が来るのを待って,夜番の話を持ち出した。
「冷や蔵に夜,人が要るんや」
「錠は掛かっとりまっせ」と弟が言った。
「融けるのは,錠では止まりませんやろ」
弟は匙を二本,水へ浸けた。氷が切れれば仏は焼かねばならず,その時,私の調べが済んでいようといまいと,暑さには何の関わりもない。
「座っておるだけでええ。一晩一杯で」
しずりは残った芯を匙で割った。
「三杯じゃ」
「昼にも二杯食べとるやろ」
「夜は夜じゃ」
「二杯半」
「半分は主が食うのか」
向こうで弟が鼻から息を漏らす。笑ったのかと思って見る頃には,いつもの不機嫌そうな顔に戻っていた。
「今年は氷の値が上がっとりますさかい。山の雪が,もうようけ減っとるそうで」
結局,三杯で折れるほかなく,店を閉める前に蔵の涼み台へ届けてもらうことにした。釣りに混じって来た五十銭銀貨を,しずりが横からさらってゆく。
「おい」
「手付じゃ」
日に透かして見てから袂へしまう。銀貨のどこを透かそうというのか。弟の前で取り返すのも情けなく,おれは銅貨だけ財布に戻した。
駐在所へ行くと,荻野は指の写しを包む封筒を用意してくれていた。一枚だけ糊を付け過ぎたのが乾かぬので,待つ間に仏の歯の話をした。
「五十九には,どうも見えんのです」
「歯ぁだけで分かるもんですか」
「それを確かめたい。分からんのなら分からんで,ええんです」
荻野は封筒へ息を吹きかけた。
「先生も身内も,あの人やと請け合うてますしな。役場の届けも受けてますし」
「私も,その紙を持って来ました」
「そら,そうや。……けど相手は柴の井さんですよ」
言ってから伏せた封筒を,荻野は慌てて剝がした。糊がまだ乾いていない。
「依田先生へ,一遍。当たってみはったら」
私は頷くだけにして,その言葉を手帖に書くのはよした。
宿では女将が夕餉を運びながら,魚の骨の多いのを詫びる。いつか話は若い頃の縫之助へ移り,背が高くて撫で肩,右の頬にだけ笑い皺の寄る人だったという。
「娘の時分はな,橋で会うただけで,襟を直したもんだす。ええ人やった」
造り酒屋の総領なのに,一滴も飲めない。それで祝いの席では湯呑みを持ち,その姿が妙によく似合ったらしい。
「病気になられたのは,いつ頃から」
女将は私の膳へ茄子をもう一皿足した。
「長いことだす。ほんまに,お気の毒に」
階下で呼ぶ声がすると,女将は返事をして,少し急いで出て行った。
夜,川へ霧が出た。
灯の下に並べた九枚は,渦を巻く指あり,横へ流れる指ありで,見比べるほどに,自分の取った墨の濃過ぎる所が気に掛かる。明日のうちに採り直そうか。そう考えていたところへ,川上から音が来た。
こここ。
瀬戸物を潰したのか,硝子を奥歯で噛んだのか。短く,それでも耳に残る音だった。窓から顔を出しても,向こう岸の灯が霧に滲むばかり。蔵のある川上は暗く,何も見えない。
湯を貰いに下りた時,女将へ聞いた。
「霧の晩はよう音が渡るんだす。桶の箍やろ。古うなると爆ぜますさかい」
注いだ湯の脇に,女将は夜食の小皿も置いてくれた。礼を言って二階へ戻り,窓を開けたままにしておく。けれども二度目の音は聞こえない。
床へ入れば,またあの歯が浮かぶ。歯の強い人もいる。五十九でも若い口の人はいるだろう。いっそ歯医者であれば,こんなところで迷わずに済むのだが。向きを変えると,枕の別の所がまだ冷たい。そこへ頬をつけ,川上に耳を向けていた。