温順02 / 11

翌朝,帳場で少し長くなるかも知れぬと持ち出すと,女将の目は奥の掛け札へ行った。

「秋には仲買さんで埋まりますけどな。今は空いとるさかい,どうぞ」

柴の井へ新酒を利きに来る客だという。払いは月末,宛名は会社でよいとのことで,まだ濡れている硯を棚から出し,女将は逗留帳に私の名を加えた。

蔵人の名ばかり並ぶ札もある。出替りの祝い膳は蔵元がまとめて払うが,誰がどれだけ飲んだかは,別にしておかねばならぬらしい。

「お宅も柴の井さんとは,長いんですか」

「長いことは長いだす。……朝のお汁,冷めまっせ」

促されて戻った膳の上で,汁の麩がよく膨れていた。箸で押せば,まだ熱い汁を吐く。

 

橋の袂の薬種屋を訪ねると,主人は薬研やげんに手を掛けたまま話し出した。診断書を出して尋ねても,病人より先に問屋の払いが気に掛かるらしい。

「春から現金,現金ですわ。うちだけ掛けで売るわけにも行かんし,置き薬まで引き上げに回っとる。嫌われる役ばっかりで」

後ろの棚にも抜けがある。主人が大瓶のあった所を示そうと目薬の小箱をどけると,埃の中に丸い跡が出た。

「臭素加里をよう売りましたんや。あの家へは,切らさんように持って行ったもんです。……もう六年目かいな。ぱったり出んようになりましてな」

「薬を替えたんですか」

「さあ,先生のことは」

「何月頃から」

主人の手で薬研の輪が一度転がり,乾いた音を立てた。中には薬が入っていない。

「春でしたな。大正十一年の。棚の整理をした時分やさかい」

そこから話は孫の胃へ移る。奥へ声を掛けた主人は返事も待たず,この胃散を飲ませたらけろっと治った,と一包差し出した。こうなると,買わずには帰りにくい。釣りを受け取る時には,目薬の箱は元の所に戻っていた。

 

氷屋が暖簾を出すのは昼前で,冷や蔵の親爺の弟がやっている。顔は兄弟よく似ていたが,弟の下唇の出ているのが,黙っていると怒ったように見える。

しずりは暖簾をくぐる前から,削り台を見ていた。

「蜜は」

柄杓を持った弟の手に,首を横へ振ってみせる。それで注文は済んだ。私も金時を頼む。付き合いである,と誰に聞かれもせぬ言い訳を考えていた。甘い物を頼む時には,どうもこういう見栄が出る。氷は粗い所から先に崩れ,しずりの皿には芯だけが残ってゆく。二杯目が来るのを待って,夜番の話を持ち出した。

「冷や蔵に夜,人が要るんや」

「錠は掛かっとりまっせ」と弟が言った。

「融けるのは,錠では止まりませんやろ」

弟は匙を二本,水へ浸けた。氷が切れれば仏は焼かねばならず,その時,私の調べが済んでいようといまいと,暑さには何の関わりもない。

「座っておるだけでええ。一晩一杯で」

しずりは残った芯を匙で割った。

「三杯じゃ」

「昼にも二杯食べとるやろ」

「夜は夜じゃ」

「二杯半」

「半分は主が食うのか」

向こうで弟が鼻から息を漏らす。笑ったのかと思って見る頃には,いつもの不機嫌そうな顔に戻っていた。

「今年は氷の値が上がっとりますさかい。山の雪が,もうようけ減っとるそうで」

結局,三杯で折れるほかなく,店を閉める前に蔵の涼み台へ届けてもらうことにした。釣りに混じって来た五十銭銀貨を,しずりが横からさらってゆく。

「おい」

「手付じゃ」

日に透かして見てから袂へしまう。銀貨のどこを透かそうというのか。弟の前で取り返すのも情けなく,おれは銅貨だけ財布に戻した。

 

駐在所へ行くと,荻野は指の写しを包む封筒を用意してくれていた。一枚だけ糊を付け過ぎたのが乾かぬので,待つ間に仏の歯の話をした。

「五十九には,どうも見えんのです」

「歯ぁだけで分かるもんですか」

「それを確かめたい。分からんのなら分からんで,ええんです」

荻野は封筒へ息を吹きかけた。

「先生も身内も,あの人やと請け合うてますしな。役場の届けも受けてますし」

「私も,その紙を持って来ました」

「そら,そうや。……けど相手は柴の井さんですよ」

言ってから伏せた封筒を,荻野は慌てて剝がした。糊がまだ乾いていない。

「依田先生へ,一遍。当たってみはったら」

私は頷くだけにして,その言葉を手帖に書くのはよした。

宿では女将が夕餉を運びながら,魚の骨の多いのを詫びる。いつか話は若い頃の縫之助へ移り,背が高くて撫で肩,右の頬にだけ笑い皺の寄る人だったという。

「娘の時分はな,橋で会うただけで,襟を直したもんだす。ええ人やった」

造り酒屋の総領なのに,一滴も飲めない。それで祝いの席では湯呑みを持ち,その姿が妙によく似合ったらしい。

「病気になられたのは,いつ頃から」

女将は私の膳へ茄子をもう一皿足した。

「長いことだす。ほんまに,お気の毒に」

階下で呼ぶ声がすると,女将は返事をして,少し急いで出て行った。

 

夜,川へ霧が出た。

灯の下に並べた九枚は,渦を巻く指あり,横へ流れる指ありで,見比べるほどに,自分の取った墨の濃過ぎる所が気に掛かる。明日のうちに採り直そうか。そう考えていたところへ,川上から音が来た。

こここ。

瀬戸物を潰したのか,硝子を奥歯で噛んだのか。短く,それでも耳に残る音だった。窓から顔を出しても,向こう岸の灯が霧に滲むばかり。蔵のある川上は暗く,何も見えない。

湯を貰いに下りた時,女将へ聞いた。

「霧の晩はよう音が渡るんだす。桶のたがやろ。古うなると爆ぜますさかい」

注いだ湯の脇に,女将は夜食の小皿も置いてくれた。礼を言って二階へ戻り,窓を開けたままにしておく。けれども二度目の音は聞こえない。

床へ入れば,またあの歯が浮かぶ。歯の強い人もいる。五十九でも若い口の人はいるだろう。いっそ歯医者であれば,こんなところで迷わずに済むのだが。向きを変えると,枕の別の所がまだ冷たい。そこへ頬をつけ,川上に耳を向けていた。