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十一

「この付箋,九月から立ったままでっせ」

経理の老係が,綴りを返してよこす。冬に入ってから,表の窓口には解約の客が絶えず,昼時の今も,窓口の者は交代で弁当を食べている。私の精算で残っているのは,この一行である。

氷代,十四円七十銭。証拠保全費。

「費目がないんですわ」

「それは,前にも聞きました」

「雑費にしたら通せんことはありません。課長の判を貰うて来て下さい」

返された綴りを開いてみても,赤い付箋は同じ所にある。幾度も挟まれた先だけが,柔らかくなっていた。

「私費で落とします。これで閉めて下さい」

「十四円七十銭でっせ」

老係は念を押すように,もう一度言った。

十円札一枚,一円札四枚を出し,残る七十銭を小銭で揃える。数え直した老係が済の印を捺し,付箋を剝がして捨てに掛かった。貰います,と,その手へ声を掛けた。

「これをですか」

「ええ」

老係の手から受け取って,手帖へ挟んだ。

「妙なお人やな」

顔を上げた時には,もう次の綴りへ取り掛かっている。

 

報告は検印を済ませ,棚へ上がっていた。三千円に支払いはない。廊下で課長から一度,ご苦労やった,と声を掛けられた。それで私も頭を下げ,話は終わりである。契約時の承諾の一行については,何も聞かれなかった。

昼の弁当時,若い者が机まで来た。

「播州の一件,ほんまの所は,どないやったんです」

「綴りに書いた通りや」

若い者はしばらく続きの話を待っていたが,やがて自分の席へ戻って蓋を取った。私も箸を持ち直す。

机には次の調べが来ている。午後に読むつもりで脇へ寄せながら,やはり気になって開き,終われば付箋の所をもう一遍読む。そうしている間に,飯が少し冷めた。

 

初霜の朝,荻野から状が来た。

中身は役場の写しと短い手紙で,清書された氏名には戸井寅蔵,死亡日には昭和二年六月二十八日とある。年齢の脇にだけ,まだ推定の字が残っていた。声にして,一度読んだ。

封筒に切手が多いのは,重さが心配だったのだろう。手紙には峠の初雪,駐在所へ火鉢を出したこと,叶屋に姫路から硝子が入ったこともある。火鉢の行には,落とした墨を拭き取り,紙まで毛羽立たせた跡が見えた。

これは会社へ持って行くのをやめ,写しも手紙も手帖に入れた。挟む紙が増えて,赤い付箋が下へ隠れる。

下宿の窓では霜が羊歯しだのような筋を広げていた。顔を寄せ,右へ二つ巻いて短い畝の離れる形を,つい探してしまう。気づいて身を引き,硝子には触れずにおいた。

支度をして下へ行けば,大家は火鉢で手を温めている。今朝は冷えますな,に,冷えますなと返し,靴を履く背中で炭を継ぐ音を聞いた。

 

十二月の初め,帰り道でしずりに会った。元町から山手へ折れた所の,夏に氷を出す店である。硝子戸は閉めてあり,汁粉の貼り紙の前に,しずりが立っていた。

往来の者は皆,襟を合わせているのに,しずりだけは開けたまま。日傘も持っていない。

「氷じゃ」

三月ぶりに聞くのが,これである。

「汁粉と書いたある」

「削る台はあろ」

入るなり,しずりは火鉢からいちばん遠い卓を選ぶ。先客の二人が,汁粉の椀から顔を上げた。注文を聞くと,親爺は盆を持ったまま動かなくなった。

「冬でっせ。台も仕舞うてますのや」

「出してくれ」

「汁粉なら,すぐ出せます。餅も」

「小豆は要らぬ」

親爺の目がこちらへ来る。見られても困るのだが,つい,すみません,と口にしていた。

「値ぇは,夏とは違いますで」

しずりは袂から五十銭銀貨を出し,盆へ置いた。

「先に払う。釣りは要る」

銀貨を取った親爺は,すぐ持ち替えて盆へ戻す。あとは何も言わず奥へ引っ込み,重いものを引きずる音をさせた。

布で埃を払う音,刃を検める音。その間に来た釣りを一枚ずつ数え,しずりは袂へしまった。

出て来た一杯目は,蜜も何も掛からぬ白い氷である。

縁の粗い所から崩し,芯を残してゆく食べ方を,おれは久し振りに眺めていた。見続けていると,しずりが少し皿を引き寄せる。

「取らへんわ」

しずりは返事をしない。空になった皿を押し出して,二杯目,と声を掛けた。

「何杯のつもりや」

「三杯じゃ」

「番は仕舞いやろ」

「歩いた分の払いじゃ。神戸は遠い」

「歩いて来たんか」

「主は食わぬのか」

おれの頼んだ汁粉は,餅の中まで熱かった。噛んだ途端,椀へ顔を近づけて口を開けるほかなく,先客の一人に笑われた。しずりは知らぬ顔で二杯目を食べている。

役場の名前が直ったことを話した。

「とらぞう」

しずりは一度,口の中で言って頷いた。

そこから話は別の方へ移り,峠に雪が来たことや,借りた羽織が兄弟のどちらのものか,まだ分からぬことなどを,おれは話した。しずりの匙は,時々,途中で止まる。

 

奥で回る削り台の音を聞きながら,汁粉の椀を両手で持つ。手が温まって来た。手帖を出し,紙の散らぬよう紐をほどいて,句の頁に行き着く。氷の番,を一本の線で消した。

番あがり 雪の隣で 汁粉食ふ

書いてから,小声で数えた。

「出来たかえ」

しずりは頁を見ずに言った。

「一遍,聞いてくれるか」

読んで聞かせると,しずりも匙を置いて指を折り始めた。数え終わった手が,袖へ戻る。

「余りは無い」

「上出来やろ」

「数の話じゃ」

おれが笑うと,しずりの口も少し動いた。ただ,氷が入っているので,笑ったかどうかは分からない。

「その紙,寄越せ」

綴じ目から裂く紙が,途中で斜めに逸れた。字に掛からぬよう少しずつ向きを直して,どうにか裂き終える。糸が一本付いて来た。しずりは二つに畳み,はみ出た糸を指で押し込むと,もう一度折って袂に収めた。

勘定を済ませた先客が戸を開け,足元へ冷たい風が入る。二人は襟を立て直し,外へ出て行った。

曇った硝子を掌で一所拭くと,空の荷車を曳く男が見えた。梶棒を置いて両手へ息を掛けている。白さが立つそばから,風に崩れてゆく。やがて梶棒が上がり,車も動き始めた。

しずりは三杯目を待つ顔をしている。

「親爺さん。三杯目を,お願いしますわ」

奥でまた,氷を削る音がした。