温順10 / 11

葬いの前の晩,周三が番小屋へ来た。襟に藁屑が付いている。売れ残った風鈴を包んで仕舞う頃で,店を閉めてそのまま来たらしい。

壁に立て掛けた板は二枚とも,蔵を解く前に人足へ頼んで挽き取ってもらい,本署から数日前に戻ったものだった。釘の疵でシウザウとある一枚に,もう一枚は,炭のシタニヰル。幾度も書かれたうちから,いちばん小さい字の所を選んである。

膝を揃えて座った周三の目は,初めからその板を離れない。私は灯を寄せ,釘の字を明るくした。

「床から,指三本くらいの所でした」

周三は顔だけを寄せて読む。手は出さず,最後のウまで目で追うと,初めのシへ戻った。

「頂いても,ええですか」

「あなたに渡すつもりで,置いていました」

ようやく手が出て,板は膝の上へ移った。縁を両側から支えたまま,周三は言う。

「母は,字の読めん人でした」

周三は白布を広げた。

「これを見せても,何や分からんかったと思います」

板をくるみ,片方ずつ角を折ってゆく。そのまま結ぶのかと思えば,一度開いて字の向きを確かめ,また丁寧に包んだ。

「母の位牌の後ろへ置きます。店の仏壇やのうて,私の部屋の棚です。そこなら,一緒に置けますので」

私は頷いた。周三は炭の字の方へ目を移した。

「こちらは,戸井さんの箱へ入れてもらえませんか」

「いいんですか」

「知らせて下さった方に,返します」

手元へ板を寄せると,指に炭の粉が付いた。明日の時刻を告げ,立ち上がった周三を送り出す。襟の藁屑を取ってやろうと思った時には,もう手が届かなかった。

 

荻野とは入れ違いになった。

「許しの紙です。周三さんへ持って行ったら,こっちへ来はったと聞いて」

受け取って灯へ寄せれば,寅蔵の氏名欄は,元の名を二重線で消してある。脇に書き添えた本名が,小さかった。

「役場の方は,まだ作り直しが済まんのです。明日までには間に合わんで」

「渡しておきます」

「直り切らん紙で,送り出すのも」

そこから先は言わずに立ち,自分は明日,制服で勤めねばならないと断った。帰り際に見上げた軒には,空の鈴が下がっている。それへ少し頭を下げてから,荻野は照れたように帽子を直した。

紙は書き付け入れの上へ挟んだ。

手帖には,まだ六つの音のままで氷の番が残っている。言葉が出ぬまま筆を置いていると,川向こうで犬が吠え,少し離れて子犬も鳴いた。あとの板は朝に包めばよい。そう決めて,行灯を消した。

 

よく晴れた。

冷や蔵はもう,湿った石壁の部屋に過ぎない。開けても涼しさの来ない戸の脇で,兄の親爺が羽織を貸してくれた。

「わしのやったか弟のやったか,分からんのですけどな。洗うてはありますで」

丈は短いのに肩は余る。腕を上げてみると,縫い目が少し引っ張られた。

橋の袂で待つしずりは,今日は日傘を持っていない。

「今日は,それを置いて来い」

視線はおれの胸にある。手帖を出して見せると頷くので,小屋へ戻って置いて来た。それでも歩きながら二度,空の隠しへ手をやる。何かを忘れた気がしてならない。

柴の井は雨戸を閉ざし,封じ札の端が一枚,風に捲れている。しずりは目を向けずに通った。

寺の彼岸花を過ぎると,本堂前に周三がいた。着物に付くのは叶屋の紋で,タヅがその襟の乱れを一所,直している。頭を下げたままの周三は,直し終わるのを待っていた。

荻野の紙を渡せば,まず氏名の所へ目が行く。脇の四字を指で押さえ,周三は畳んで懐へ入れた。

骨箱は本堂の脇に二つ並んでいる。寺男に寅蔵の方を開けてもらい,炭書の板を字が上になるよう納めた。蓋が閉まると,もう見えない。

短い経の中で,和尚は二人の名を,同じ調子で読み上げた。

位牌は俗名を書いた白木で,二つとも私が持つことになった。重ねるのも具合が悪く,片手に一つずつ持ち直す。新しい木の匂いがした。

 

和尚のあとを,父の箱を白布で首から掛けた周三が行く。両掌を底へ添え,歩みに合わせて揺らさぬようにしている。寅蔵の箱を抱いたタヅには寺男が代わりを申し出たが,首を振るばかりだった。

おれが続いて,しずりが最後に来る。鋤を持った寺男は列の横へ回り,少し先に出た。

墓へ上がる道の分かれに,精一郎が立っていた。

黒い背広で,脱いだ帽子を両手に持っている。近づく列へ頭を垂れると,周三の足が一呼吸ほど止まった。けれどもそれだけで,また歩き出す。どちらからも,呼ぶ声はなかった。

精一郎はその場を動かない。通り過ぎる足元,松の根に巻莨まきたばこの吸殻が三つ落ちていた。

石段ではタヅの息に合わせて二度,立ち止まった。箱を持とうと言っても聞いてくれない。二度目には寺男が,ここからはすぐや,と励ましたが,顔を上げればまだ階段は続いている。

真柴代々の墓から一段下がる斜面に,キヨの小さな墓がある。大正十四年の日付を浅く彫った石の隣には,穴が二つ掘られていた。

母に近い方へ父を,次に寅蔵を納めると,周三が決めた。

周三は父の箱を草へ置き,羽織を脱いで畳むと,タヅに預けた。袖をたすきで括り,首から外した白布を細く折って,箱の下へ通してゆく。

一度上げかけた箱を,布が片寄るのでまた置く。やり直して,今度は両端をしっかりと握った。

少しずつ下ろすに従って,腕が先に伸び,次に腰が屈む。箱が穴の陰へ入ったところで,周三は膝をついた。

斜め前に立つしずりの口元から,白い息が一筋,日向へほどけた。おれは位牌を胸元へ寄せる。周三の手が穴の縁で止まるまで,しずりは同じ所を見ていた。

寅蔵の箱も,タヅが自分で納めるという。肘を貸してしゃがませると,そこからはもう手を借りず,下ろした箱の角度を少し直した。

「そうれん日和じゃ,のう」

それでも膝を伸ばす段になると顔が歪み,今度は素直におれの腕を借りた。

 

墓前の経が済むと,和尚は先に下りた。

周三がひと鋤入れたあとは,寺男が土を戻してゆく。初めのうち硬く響いていた箱も,やがて土の当たる音を立てなくなった。

タヅの数珠は,まだ乾いた音を立てている。しずりは少し離れ,古い墓の根元の草を見ていた。

斜面の下には町が見える。白壁の間を荷車が一台動いてゆくが,遠くて,曳く者の顔までは分からない。

埋め終えた盛り土を,周三が掌で押さえる。片方が少し高いまま手を離し,こちらへ位牌を受け取りに来た。

タヅの開いた風呂敷には,飯の椀が二つ入っている。警察から返された方の内側に,見覚えのある筋が二本残っていた。

墓の前へ据え,飯を覆った紙を外した。

「寅やんは,ようけ食べなはった児じゃさかい」

酒は寅蔵の前だけに,小さな徳利から盃へ注ぐ。縫之助の方には竹筒の水を据えた。

飯はどちらの椀にも,縁の上まで盛ってあった。