三日目にようやく湯へ行った。襟を替えても,首の後ろがべたつく。書類を広げている間は気にならなかったものが,筆を置くと我慢ならなくなる。
番台の銭函の脇に,名札を詰めた箱があった。
「蔵の衆の分や。月極めで,蔵元さんがまとめて払うてくれる」
番台の親爺が一枚抜いて見せた。何遍も指の掛かった上の縁が丸く減っている。
「この札が減ると,薪を細うせんならん」
親爺は笑って札を戻した。私は湯銭を置くと,人の名を見ていたのが少し恥ずかしくなり,脱衣場へ入った。
湯船の年寄りが一人,鼻歌を唸っている。半ばまで聞こえたところで,顔へ湯を掛けるために途切れ,また同じ所へ戻る。文句はよく分からぬのに,拍子ばかり律儀だった。あとから二人入って来て,春の取り付けの話をした。
「わしも並んだで。三日目や。引き出して,翌週にはまた預けた」
「手数の掛かることやの」
「家に置いとく方が寝られへんがな」
肩へ湯を掛ける男に,もう一人が長持ちの話を始めた。向こうの隠居が売り払ったとかで,座敷の壁にその形が白く残ったそうである。年寄りの唄が,二人の声の切れ目に出て来た。
「また唄うとってや」
「昔,蔵にあれ唄う男が居ったな。湯ぅでのぼせるまで唄いよった」
「腕はええ男やった。樽を上げるんでも,こう,腰でな」
湯の中で腰を動かすものだから,私の胸まで湯が寄って来る。男は気づいて詫び,やがて話も薪の値に移った。年寄りは聞いているのかいないのか,顎まで浸かったままである。
上がり場で年寄りに会釈され,私も頭を下げた。まるで誰かに引き合わされたようだったが,名乗るところまでは行かない。
その足で髪結いへ寄った。こちらでも,蔵人の給金日の翌朝には人が詰め掛けるのだという。
「隣の桶屋もうちも,柴の井さんの月末で食うとります」
「その月末が来んようになったら,大変ですな」
剃刀が,顎の下で止まった。
「上,向いてもらえますか」
天井を向いていると,奥から老人の声がした。
「縫之助さんが二十の頃から,わしが頭を当たっとったんじゃ」
「親父,もう黙っとき」
「蔵へ入りなはった日も見とる。暴れもせなんだ。橋から見えたで。一遍,母屋の二階を仰いで,笑いなはった」
剃刀がまた動き出した。
「誰もおらん窓やったがのう」
「親父」
声はそれきりになった。目の隅には桶屋の庭が見え,積み直されてゆく樽の腹に,同じ焼き印が並んでいる。柴の井の印である。店の者が差し出す鏡には,剃り残しのない顎が映った。文句をつける所はない。もう一遍あの話を尋ねようとした時には,拭った手拭いも返してしまっていた。
柴の井の前を通る。枯れた杉玉の下へ喪の戸が半ば立ち,掃いていた番頭が箒を止めて,深々と頭を下げた。こちらが挨拶を返しても,なかなか上がらない。白壁の向こうに三つ見える蔵屋根は,川上の一つだけ古かった。先代以来,酒造りには使っていないと,宿の女将から聞いている。
橋を渡れば玖上銀行で,石の柱が二本立つ。中へ入ると涼しく,机の紙を飛ばさぬほどの風を,扇風機が送っていた。名刺を見た支配人は,すぐ柴の井の名を出した。
「十五年です。保険料は十五年,一度も滞っとりません」
金庫から出させた黒表紙の綴りには,明治四十五年から昭和二年までの領収が年ごとに揃っている。
「満期は昭和七年。あと五年で三千円。これは手堅い財産ですわな」
「証券は,こちらにお預けで」
「ええ。春の評価替えの折に,改めてお調べしましたんや。先方さんも忘れかけとって。まだこんなものがございますで,と,私から申し上げた」
支配人は綴りを閉じる前に,もう一度,十五年と言った。
「春は三日,人が並びました。せやけど札束を積んで,どうぞなんぼでも,と言うたら,帰らはる。見せるということが大事なんです」
窓口の格子へ目をやった。今は並ぶ者もいない。
「評価替えでは,柴の井さんに追加の担保を求められたんですか」
支配人は綴りの表紙を掌で払った。
「そこはまあ,先方さんとの話ですさかい。……お支払いは,いつ頃になります」
「調べが済みませんと」
「型どおりに済む話やと思うとりますが」
扇風機の首がこちらへ回り,汗ばんだ首筋を冷やす。支配人は待っていたが,同じ返事をもう一度するほかなかった。
橋へ戻ると,しずりが柳の下にいた。
「昼の氷,厚かったな」
仕事と関係のないことを口にしたくて,そう言った。
「朝は薄い。昼から腕が鈍る」
「刃ぁが鈍るんやないのか」
「腕じゃ」
しずりが一度だけ削る真似をする。似ている。つい笑ってしまった。
「しかし暑いな。石が草履の裏から焼くわ」
「川端に居ればよい」
言い返すだけ無駄である。しずりは拾って来たらしい柳の葉を欄干へ一枚ずつ並べ,風で二枚飛ばされても,そのままにしていた。
「今朝の飯やけど」
話しかけたところで,しずりは残る葉を川へ落とし,行ってしまう。冷や蔵へ向かう時分なのだ。ついて行くほどの用もなく,今朝の飯のことは言わずじまいになった。
夕方の氷は一貫と決まっていて,俵を解くとしずりが切り面へ手を当てる。その日も,欠片を一つ口に入れた。
「粗い」
兄の親爺が,切り面を見た。
「同じ氷室ですけどなあ」
返事の代わりにもう一欠片食べ,しずりは涼み台へ座った。夜の番の始まりである。朝には空の器三つが台の端に重なり,どの夜に覗いても,当人は起きている。見に来ぬ夜もそうなのだろうと,思うほかなかった。
宿で手帖を開き,宿代,湯銭,髪結い代を帳面へ写した。氷の一貫七十銭は,ひとまず別にした。柴の井で出すと言っている銭でも,会社の指図がもとで使わせている。いずれ誰が払うか,はっきりさせねばならない。欄外へ,証拠保全費,と書いてみる。こんな費目を経理へ出した覚えはない。
しずりの氷水は,また別の勘定になる。連れの食い物を死人の世話賃と言って出せるものではなく,自分の金時も黙って財布から引いた。たった三銭を惜しんでいるようで,どうにも嫌だった。
書類を結ぼうとして,紐を持ったまま手が止まった。
以前にも,こうして一つの調べを綴じている。読むべき紙を読まずに判を捺し,あとになって,急いでいたと何遍も言った。言うたび,聞いている者よりも自分に向けて言っているのが分かる。
以来,仕事が遅い。自分でも遅いと思う。支店で付けられた渾名も承知している。遅い者なら長患いの調べに似合いだ,そういう冗談でここへ出されたのでなければよいが。
中間報告へ名を書き,死亡日と死因を診断書から移すまではよい。備考の所で,筆が止まった。歯の具合がおかしい。
そう書いても調べにはならぬ。年齢に疑いがある,では大き過ぎる。筆を置いて顔を洗いに行ったが,戻ったところで,書ける文句があるわけではない。
下を夜廻りの拍子木が過ぎ,女将の締める戸の音が続いた。結局,その晩は三行だけの紙を鞄へ入れた。