柴の井の帳面は,拍子抜けするほど容易に見せてもらえた。精一郎と名乗った若旦那は,東京の商大を出て帳場を任されているという。暑いのに背広で通していたが,私の上着が椅子の背にあるのを見て,ようやく脱ぐ気になったらしい。それも袖へ手を掛けたきりで,思い直したように袖口を撫でた。
「請求書類は私が作りました。不備があれば,私へ言って下さい」
仕入れ,給金,樽の修繕と並べた横に,賄いの綴りまで用意してある。頼んだより多い。大正十一年春の賄いに,奥向きの膳,酒一合,とあった。その行は後の年にも続いている。蔵人の余りを回したのかと思い,そのまま頁を送った。
出面帳を繰ると,同じ名が現れては消える。冬ごとに雇い入れる蔵なのだろう。戸井寅蔵の名は三十年近く前に小僧として載り,幾年か途切れたのち,大正八年の秋にまた現れていた。十一年春の末には,暇,とだけある。
「給金は下げておりません」
精一郎が言った。
「下げれば灘へ行きます。酒が出来てから人を呼び戻すわけにはいきませんので」
「この方も,灘へ」
私は寅蔵の行を指した。
「その頃はまだ東京で,顔は覚えておりません。番頭なら……今日は蔵へ出ています」
精一郎の開いた給金の繰越しは,もう一度算盤を使っても同じになる。数字はどれも正しかった。
帳面を返す際に尋ねた。
「伯父様のお顔を,最後にご覧になったのは」
「葬いの前の晩です。いえ,焼くのをお止めになった,その前の晩」
精一郎は言い直してから,まだ何か違うというように黙った。
「お父上にも伺ってよろしいでしょうか」
「呼んで参ります」
しばらく待って通された奥座敷では,敬吾が中庭の水鉢を見ていた。五十五と聞くわりに,背中が年寄りじみて薄い。
「遠いとこを,ご苦労なことやなあ。暑かったやろ」
膝の前の座布団を,自分で少しこちらへ寄せてくれた。
「倅の帳面は細かいやろ。あれはわしには出来ん。膳の大根まで数えよる」
笑うと目尻に細かい皺が寄る。話の途中,空の膳を二枚重ねた老婆が廊下を通った。
「タヅ,あとで麦湯を」
へえ,と頭を下げるのに合わせて,膳も傾く。その名で,縫之助の世話をしていた人と知れた。
敬吾の話は冬の仕込みへ続く。喪でも蔵人を遊ばせるわけにはいかず,氷屋は先代からの出入りだから,冷や蔵のことも遠慮なく申し付けてくれという。
「お兄様の顔は,いつお見届けになりました」
敬吾は私の空の湯呑みに目を落とした。
「兄はな,酒の飲めなんだ人で。祝いの席でも水やった。蔵元の総領やのに,親父は呆れとったが……」
そこで廊下を振り返った。
「麦湯はまだかいの」
やって来たタヅの盆には,湯呑みが二つ。片方の縁が欠けていて,敬吾は先にそちらを取った。
それを待ってから聞き直せばよかったのである。私は麦湯を飲み,とうとう二度目を聞きそびれた。玄関まで送って来た敬吾が,日陰を選んで行きなはれや,と声を掛けてくれる。
役場の書記は,委任状を受け取っても渋った。
「御遺族から,じかに頼んでもらえませんか」
「支払いの前に,受取人と相続の関わりを確かめる決まりでして」
「どこでも決まりやなあ」
口ではそう言いながら棚へ立つので,私も腰を浮かせかけて,座り直した。手を貸すほど知った間柄でもない。
明治四十一年八月,胎児認知の届け。届出人,真柴縫之助。母の名はキヨとあった。
翌四十二年二月,禁治産の宣告。後見人は弟の敬吾。同じ月の控えに,医師の診断を添えた私宅監置の願いがある。
大正八年四月,先代死亡。家督を継いだ戸主の欄には,縫之助の名がある。三つの日付を控えてみると,子を認めてから半年で自分の判を持てなくなっている。それでいて,この人が家の主なのだった。
私の手帖を見ていた書記が,筆の止まるのを待って閲覧控えを差し出した。
「ここへお名前を。日付も」
書いて返すと,書記はその横へ自分の印を捺した。
依田の家へも寄った。門口の石はよく水を吸い,いかにも人がいそうなのだが,女中は往診で留守だというばかり。帰りも分からぬと繰り返し,名刺を受け取ると,こちらが次の日取りを告げぬうちに戸を閉めた。
荻野は駐在所の梯子に乗っていた。
「これですわ。古い分からあります」
監置の実査綴りだった。許可が下りてから,年に一度,巡査が見廻ることになっている。
古い紙には,狂躁,独語,夜間に格子を敲く,などとある。筆跡が替わっても書かれることに大差はなく,大正十一年まで来たところで,急に記載が短くなった。
頗ル温順。
次の年も,その次も,この二字で済んでいる。時々,唄ヲ唄フ,軍歌ノ如シ,という付記が見つかるくらいで,ほかにはない。
「今年は自分が書きました」
荻野が紙の一枚を寄せた。
「前の年を見て。……声は掛けましたで。格子の前から。咳が聞こえました」
「顔は」
「暗うて。奥で横になっとってでしたさかい」
今年の紙を前年の上へ重ねる。上にも下にも,筆の違う同じ二字があった。
「顔色を見るのが実査や,と引き継いだんですけどな」
荻野は笑いかけて口を結び,紙の自分の名を指で押さえた。そんなことをしても,墨はとっくに乾いている。
古い分から数えて,十九枚になる。
宿へ戻り,報告の備考を埋めた。
歯牙の所見,届出の年齢と整合せざるやに思われ,精査を要す。
不恰好な文でも,もう封をするしかない。郵便局は雑貨屋の一隅にあり,受け取った親爺は,さっそく宛名を声にした。
「保険株式会社,調査係御中。神戸だっか」
「明日,着きますか」
「明日の朝,峠を下る便やさかい,あさってですわ」
封筒が窓口の束へ載るそばから,後ろの客が私をよけて売り物の飴を指す。親爺は振り返り,表書きを上にした封筒だけが残った。
外へ出て二軒ほど歩いた所で,音がした。
こここ。
足を止めて耳を澄ませる。向こうの軒かと思えば,歩き出した途端,さらに先で鳴った。
こここ。こここ。
何かが,こちらより先へ行く。早足にすると早くなり,立ち止まれば音も止む。
来た方へ三歩戻ってみる。鳴らない。戻した足を先へ出すと,まだ行き着かぬ軒から聞こえた。
見上げた軒には,何も下がっていなかった。
宿へ帰る気になれず,冷や蔵へ行くと,しずりが器の縁を齧っていた。こつ,こつと歯の当たる音がする。普段なら行儀が悪いと小言も出ようが,その晩はこれが有難かった。
隣へ座ると,軒でまた,ここ,と鳴った。しずりの息が灯の前で薄く白む。手帖を開き,用もない出面帳の数字を一巡したところで,やっと句の頁に落ち着いた。
「それは」
「俳句や」
「読め」
私は書いたばかりのものを読んだ。
氷の番 川の音だけ 夜半の月
しずりはおれの調子を真似て繰り返す。息を切る所が違うせいか,ひどく妙な句に聞こえた。指を折り終えると,その手をこちらへ出す。
「一つ,多いぞ」
おれの指で数えても,十八ある。
「そうやな」
「そうやな,では直らぬ」
鉛筆を取ってはみたが,直す当てがない。頁の端へ句集から拾っておいた言葉を,しずりが指した。
「これは」
「ぬばたま。黒い実や。古い唄で,夜の前なんかに付ける」
「食うのか」
「知らん。おれも見たことがない」
ぬばたま,と二度ほど口にしている。意味より音が気に入ったらしい。そのうち指が氷の字へ移り,今度は書き方を教えよという。
鉛筆の持ち方から教えねばならず,点は大きくなるし,右の払いは行を越す。手を添えようとしたおれから,もうよい,と肩を引き,しずりは勝手に書き上げた。灯へかざして眺め,戻したあとも横から覗くので,紙は開いたままにしておく。
「今夜は,もう一杯置いとこうか」
「帰って寝よ。番は雪の勤めじゃ」
器を抱え直して,しずりは戸前へ向き直った。
部屋へ戻ると,郵便局の封筒の向きばかりが思い出される。飴を買った客の顔は,もう浮かばなかった。