報告を出してから五日,朝の便が着くと帳場へ下り,女将に首を振られて二階へ戻る,その繰り返しだった。六日目の朝には,氷屋の兄が銭を先にくれという。
「今日からは,運ぶ前に頂きたいんですわ」
俵の縄を結び直しながら言う。結び目は,もう出来ているのだが。
「柴の井さんから,何か」
「会社さんの検分が始まってからの分は,そちらへ,ということでな。帳面も,そのように分けさせてもろてます」
「聞いておりませんが」
「へえ。……うちも山へは現金で払いますさかい」
親爺の手は,まだ縄から離れない。財布を出して七十銭を渡すと,ようやく手を拭いて受け取り,俵へ藁を余分に詰めてくれた。そのために,さっきから結んでいた縄をまた解く。
神戸からの返事はどうなったのだろう。往きに二日,返りに二日。向こうで一日机に寝かせたとしても,もう着くはずである。あの机では誰が先に封を開け,次に誰へ回すか。日を数えているつもりが,知った顔ばかり浮かべていた。
小僧が夜番の器を三つ重ねて抱えて行くと,親爺はその足元へ,欠けた石を踏むなと声を掛けた。私への話はもうないらしい。
弟の氷屋へ行くと,しずりは先に食べていた。
「夜が重うなった。四杯じゃ」
「三杯で請けたやろ」
「氷が粗うなった」
「それはおれのせいやない」
しずりの匙は返事もせず,底の氷を寄せている。今までなら,器を口へ持って行って済ませる量である。
「三杯半では」
「まだ言うか,あほあきんど」
弟がこちらへ返した木札には,氷水の値が二銭高く書いてあった。昨日までは裏を向けていたらしい。
「御時世ですさかい」
前に値の話をした時より声が小さい。すぐ削り台へ手を掛けた弟をよそに,おれはしばらく木札を見ていた。誰も続きを言わぬので,こちらも聞きようがなかった。
その日の午後,叶屋で風鈴を買った。
橋から二筋入った小間物屋で,軒の八つに加え,内の梁にも大小が幾つも下がっている。主人の勘定では四十になるという。
「震災からこっち,硝子が入りにくうて。売れ残りやありませんで,仕入れ残りですわ」
言ってから自分で笑った。
「まあ,この夏は,まだ一つも売れとりませんのやけどな」
宿の窓へ吊って,あの音と比べてみるつもりで,いちばん小さいものを選んだ。十五銭である。手に取れば軽く,うっかり握り込むだけで潰れそうな頼りなさだった。
「この中のが,舌です」
主人が糸を持ち上げると,細い硝子の棒が縁に触れて鳴った。
「ゼツ,と読みます。これが外れたら,吊っといても鳴りません」
澄んだ音がする。私の聞いたものとは似ていない。
包み紙を切る主人は,柴の井の北の蔵にも,自分の店で売った品が一つあると話し始めた。
「婆やさんが買うて行かはった。もう二十年近う前です。まだ下がっとりますで。あそこの前を通るたびに見ますけど,鳴っとるのは聞きませんな」
「酒を造っていない蔵ですか」
「いちばん川上の,あれですわ」
奥から少年が箱を運んで来た。前掛けを締め,框の外で膝をつくのも,箱を置いてから頭を下げるのも,きちんとしている。
「周三,表の八つ,取り込んどき。もう日が回る」
「はい」
少年が立つのを待って,主人は少し声を落とした。
「貰い子ですけど,出来はうちのよりええ。十九になりますのや」
うちの,と呼べる子が別にいるのだろうか。主人はそこまで話さず,少年も,その言葉へ顔を向けようとしなかった。
周三が軒の端へ手を伸ばす。
触れる前に,鳴った。
こ,ここ,こ。
ここここかかかこここ。
こが,ががががががが。
四十が,いっぺんに鳴っている。大きいのも小さいのも,あの潰れた声だった。包みかけの鈴を押さえる指が痛い。落とすまいとして,いつのまにか力が入っていた。
音が止んだ。
短冊は動いていない。梁から下がる糸もまっすぐで,往来の豆腐屋だけが足を速めた。肩の荷が揺れて,桶からこぼれた水が道に続く。
「地震,ですかいな」
主人の目が水鉢へ行き,波のない水面に留まる。それきり,誰の顔も見なくなった。
周三の手も,まだ宙に伸びている。しばらくしてから,いちばん近い鈴を外しに掛かった。
「風はありませんでした」
低い声には,誰かの返事を待つようなところがある。目が合いながら,私は何も言えなかった。
主人は釣りを多く出し,直そうとして今度は少なくする。開いた掌を引っ込めるわけにもいかず,私は待っていた。
「……店を開けてから,初めてですわ」
ようやく合った銭を,主人は私の掌の真ん中へ置いた。
橋でしずりが日傘を低く差している。ふだんなら差さずに振り回している傘なので,すぐに気がついた。
横へ並べば,こちらの歩幅に合わせてくる。橋板のよく焼けた所だけ,少し川側へ寄って歩いた。
「今日はもう,仕舞え」
「うん」
「夜は雪が居る」
「氷は買うてある」
「知っておる」
宿で包みを解いてはみたものの,吊るす釘を探すのが嫌だった。膳の隅へ置いた鈴の短冊が畳に触れ,そこへ灯の影が出来ている。
先払い,氷水二銭上がり,と手帖に控え,その次へ,風鈴四十,一時に鳴る,風なし,と続けた。
しばらくして役場の控えを繰り直す。認知の届けは明治四十一年の八月。周三は十九。数え年なら,翌年の生まれになる。
端へ書いてみた名は,まだ線で結ぶには頼りない。
布団へ入っても,膳の上を見ぬようにしている自分が気になる。硝子に灯が映るのが分かるからで,とうとう起きて包み直し,鞄の底へしまった。