温順05 / 11

報告を出してから五日,朝の便が着くと帳場へ下り,女将に首を振られて二階へ戻る,その繰り返しだった。六日目の朝には,氷屋の兄が銭を先にくれという。

「今日からは,運ぶ前に頂きたいんですわ」

俵の縄を結び直しながら言う。結び目は,もう出来ているのだが。

「柴の井さんから,何か」

「会社さんの検分が始まってからの分は,そちらへ,ということでな。帳面も,そのように分けさせてもろてます」

「聞いておりませんが」

「へえ。……うちも山へは現金で払いますさかい」

親爺の手は,まだ縄から離れない。財布を出して七十銭を渡すと,ようやく手を拭いて受け取り,俵へ藁を余分に詰めてくれた。そのために,さっきから結んでいた縄をまた解く。

神戸からの返事はどうなったのだろう。往きに二日,返りに二日。向こうで一日机に寝かせたとしても,もう着くはずである。あの机では誰が先に封を開け,次に誰へ回すか。日を数えているつもりが,知った顔ばかり浮かべていた。

小僧が夜番の器を三つ重ねて抱えて行くと,親爺はその足元へ,欠けた石を踏むなと声を掛けた。私への話はもうないらしい。

 

弟の氷屋へ行くと,しずりは先に食べていた。

「夜が重うなった。四杯じゃ」

「三杯で請けたやろ」

「氷が粗うなった」

「それはおれのせいやない」

しずりの匙は返事もせず,底の氷を寄せている。今までなら,器を口へ持って行って済ませる量である。

「三杯半では」

「まだ言うか,あほあきんど」

弟がこちらへ返した木札には,氷水の値が二銭高く書いてあった。昨日までは裏を向けていたらしい。

「御時世ですさかい」

前に値の話をした時より声が小さい。すぐ削り台へ手を掛けた弟をよそに,おれはしばらく木札を見ていた。誰も続きを言わぬので,こちらも聞きようがなかった。

 

その日の午後,叶屋で風鈴を買った。

橋から二筋入った小間物屋で,軒の八つに加え,内の梁にも大小が幾つも下がっている。主人の勘定では四十になるという。

「震災からこっち,硝子が入りにくうて。売れ残りやありませんで,仕入れ残りですわ」

言ってから自分で笑った。

「まあ,この夏は,まだ一つも売れとりませんのやけどな」

宿の窓へ吊って,あの音と比べてみるつもりで,いちばん小さいものを選んだ。十五銭である。手に取れば軽く,うっかり握り込むだけで潰れそうな頼りなさだった。

「この中のが,舌です」

主人が糸を持ち上げると,細い硝子の棒が縁に触れて鳴った。

「ゼツ,と読みます。これが外れたら,吊っといても鳴りません」

澄んだ音がする。私の聞いたものとは似ていない。

包み紙を切る主人は,柴の井の北の蔵にも,自分の店で売った品が一つあると話し始めた。

「婆やさんが買うて行かはった。もう二十年近う前です。まだ下がっとりますで。あそこの前を通るたびに見ますけど,鳴っとるのは聞きませんな」

「酒を造っていない蔵ですか」

「いちばん川上の,あれですわ」

奥から少年が箱を運んで来た。前掛けを締め,かまちの外で膝をつくのも,箱を置いてから頭を下げるのも,きちんとしている。

周三しゅうぞう,表の八つ,取り込んどき。もう日が回る」

「はい」

少年が立つのを待って,主人は少し声を落とした。

「貰い子ですけど,出来はうちのよりええ。十九になりますのや」

うちの,と呼べる子が別にいるのだろうか。主人はそこまで話さず,少年も,その言葉へ顔を向けようとしなかった。

周三が軒の端へ手を伸ばす。

触れる前に,鳴った。

こ,ここ,こ。

ここここかかかこここ。

こが,ががががががが。

四十が,いっぺんに鳴っている。大きいのも小さいのも,あの潰れた声だった。包みかけの鈴を押さえる指が痛い。落とすまいとして,いつのまにか力が入っていた。

音が止んだ。

短冊は動いていない。梁から下がる糸もまっすぐで,往来の豆腐屋だけが足を速めた。肩の荷が揺れて,桶からこぼれた水が道に続く。

「地震,ですかいな」

主人の目が水鉢へ行き,波のない水面に留まる。それきり,誰の顔も見なくなった。

周三の手も,まだ宙に伸びている。しばらくしてから,いちばん近い鈴を外しに掛かった。

「風はありませんでした」

低い声には,誰かの返事を待つようなところがある。目が合いながら,私は何も言えなかった。

主人は釣りを多く出し,直そうとして今度は少なくする。開いた掌を引っ込めるわけにもいかず,私は待っていた。

「……店を開けてから,初めてですわ」

ようやく合った銭を,主人は私の掌の真ん中へ置いた。

 

橋でしずりが日傘を低く差している。ふだんなら差さずに振り回している傘なので,すぐに気がついた。

横へ並べば,こちらの歩幅に合わせてくる。橋板のよく焼けた所だけ,少し川側へ寄って歩いた。

「今日はもう,仕舞え」

「うん」

「夜は雪が居る」

「氷は買うてある」

「知っておる」

宿で包みを解いてはみたものの,吊るす釘を探すのが嫌だった。膳の隅へ置いた鈴の短冊が畳に触れ,そこへ灯の影が出来ている。

先払い,氷水二銭上がり,と手帖に控え,その次へ,風鈴四十,一時に鳴る,風なし,と続けた。

しばらくして役場の控えを繰り直す。認知の届けは明治四十一年の八月。周三は十九。数え年なら,翌年の生まれになる。

端へ書いてみた名は,まだ線で結ぶには頼りない。

布団へ入っても,膳の上を見ぬようにしている自分が気になる。硝子に灯が映るのが分かるからで,とうとう起きて包み直し,鞄の底へしまった。