湯から戻ると,文机の上に天眼鏡が出ていた。革鞘に入れて行李へしまったはずである。書類は紐を解かれ,拇印の頁で開いた証券の上に,柄をこちらへ向けて置いてある。
灯を寄せてみると,玉の真ん中に指の脂が見えた。しまう前には,確かに磨いている。脂の線は右へ二巻きして,ほどける所に短い畝が一つ離れていた。玉の下の墨にも,同じ所に短い線がある。よく見ようと玉を動かした途端,曇りと拇印が重なった。
私は天眼鏡を持ったまま,二階の入口まで行った。
帳場の女将は,誰も上がっていないという。女中にも尋ねたが,蒲団は私が湯へ出る前に敷き,あとは二階へ来なかったそうである。窓を検めても,猿は内側から落ちたままだった。
部屋へ戻ってほかの書類を繰れば,枚数は合い,付箋も残っている。それだけ確かめたところで,なぜ紐が解け,天眼鏡が出ているのか,分かるわけではなかった。
玉を机へ戻そうとして,手の震えに気づいた。このまま置けば転がしそうで,もう一方の手を添える。曇りは拭かず,その晩は枕元へ置くことにした。これでは眠れまいと思ったのに,朝には自分の方が蒲団の脇まで転がり出て,眼鏡の柄を頬に感じて目を覚ました。
翌朝は薬種屋で石松子を求めた。丸薬の衣に使う粉で,脂によく付く。講習でも,これを使えば指の跡が出たものである。
奥から出て来たのは女房だった。
「主人は寄り合いに出とります」
尋ねもせぬうちに言い,包みと引き換えに銭を受け取ると,もう奥へ戻ってゆく。
その足で叶屋へ回り,軒の八つに粉を掛けさせてくれと頼むと,主人の顔が曇った。
「そら,あきません」
「あとで拭えます。傷にはしません」
「傷やのうてな。売り物に妙なことをされると,曰くが付いてしまいますやろ。うちはそれで商売をしとるんです」
昨日の音を持ち出しても,主人は水鉢の柄杓を取り,軒下へ水を撒いている。堪忍しとくなはれ,と返って来るのは背中からの声だった。
周三は見当たらない。粉も封を切れぬまま,持ち帰ることになった。
北の蔵の隣に,夜の唄を聞いた婆がいるという。お梅という名を荻野から教わり,連れて行ってもらった。縁側で豆の筋を取る婆は耳が遠く,こちらも大声を出さねば話が通じない。向こうは初めから大声なのである。
「唄なら,よう唄いよってじゃ。夜になるとの,若い声で」
「軍歌ですか」
「軍歌じゃろうなあ。はて,文句は」
豆を膝へ置き,掌で拍子を取った。
「……のはて,浪の……はようえ,いんでこ,いんでこと……」
息が切れると婆は笑い,また初めの節へ戻る。荻野が私の方を見た。
湯屋の年寄りも,これを唸っていたのだ。言葉がなくなっても,同じ所で拍子が揃う。
「いんでこ,いうのは何です」
「帰ろ,じゃがな。はよう帰ろ帰ろいうて,そればっかり唄うのじゃ。お蔭で,わしまで覚えてしもた」
荻野は節を小声で繰り返した。
「浦塩帰りの衆が唄うやつですわ。在郷軍人会の酒の席で聞きました。けど,文句は帰りたい,や。いんでこ,とは」
「唄うた者が,そう唄うたんじゃろ」
そう言う頃には,もう豆の筋を取る手に戻っている。
「この夏から聞かんようになっての。静かになると寝つけんもんじゃ。川裾で時々,けったいな音はするが。あれは何じゃ」
返事に窮していると,婆は聞こえなかったものと思い,もう一度,大きな声で尋ねた。
「分かりません」
今度は二人の声が重なった。
帰りには塩茹での豆を持たせてくれた。蕗の葉に包んであって,断ると耳へ掌を立て,何じゃ,と聞き返す。貰わなければ帰れない。道へ出て一つ食べ,荻野にも渡すと,同じように食べた。少し塩辛い。婆の家では,まだ何か言っているのが聞こえた。
宿の女将が電報を渡した。
シラベ ウチキリ。フカオイ ムヨウ。スミヤカニ キニンサレタシ。シテン。
女将の前で読むつもりが,もう封を開けていた。読み終わるのを見て向こうが頭を下げるから,私もつられて下げる。詫びられることではないのだが。
晩飯は食べた。何が出たかは覚えていない。
涼み台へ行くと,しずりがいた。
「橋の下の犬,近頃見んな」
「向こう岸に居る。子を連れておった」
「子が出来たんか」
「三つじゃ」
三匹がくっついて寝ているところを考えてみる。暫くそうして座っているうちに,電報のことは話さずじまいになった。
帰りは依田の家の裏を通った。紙の焦げる匂いがする。生垣越しに小さな火が見え,その傍には煙管の赤い点も動いていた。足を止めていると,向こうから声が掛かった。
「保険屋さんかの。そこは蚊が食う。入って来なはれ」
開いている枝折戸を入ると,依田が庭石に腰を掛けている。膝脇に積んだ紙の束から,こちらが近づく間にも一枚抜いて火へくべた。
「反故じゃ。四十年もやっとると,溜まるばかりでな」
「投薬の控えを見せて頂きたくて,伺いました」
「臭素加里やろ。薬種屋で聞きなはったそうやな」
狭い町だ,と笑う顔に,こちらは笑い返せない。
「いつからいつまで出ていたか。それを」
「あきません」
風で崩れた火の端を,依田が火箸で戻してゆく。まだ白い紙も,一緒に内へ押し込まれた。
「病人の控えじゃ。よその人へは見せられん」
「亡くなられた方のことです。何か,見違いがあるのでは」
「長患いの紙はな,印南さん。前の年のを見て書くのじゃ」
依田は煙管を二度,三度と吸う。火が消えかけているらしい。
「量が変わらんと,薬の名も同じや。二年目からは手間の掛からん紙になる。……あんたの欲しいことが,そこに書いてあるかの」
膝脇の束を見ても,隠す気配はない。また抜き取った一枚の字が焔に透け,すぐ黒く縮んでゆく。表を読めるほど近づくわけにもいかなかった。
「夜分に失礼しました」
立ち上がった私を,依田は川沿いへ行くなと止めた。土手に蝮の出る時分だから,帰りは表を歩けという。
枝折戸の外からもう一度礼を述べると,返事の代わりに,煙管を打つ音が聞こえた。
翌晩にも通ってみたが,もう火は見えない。匂いの残る足元に白い灰が一片あり,拾おうと触れただけで崩れた。
胸には帰任を命じる電報がある。今から荷を作れば,明日の朝の乗合に間に合う。
いったん表の道へ出ながら,途中でまた川側へ折れた。番をしている者の前を通らずには,どうも宿へ帰れない。