温順06 / 11

湯から戻ると,文机の上に天眼鏡が出ていた。革鞘に入れて行李こうりへしまったはずである。書類は紐を解かれ,拇印の頁で開いた証券の上に,柄をこちらへ向けて置いてある。

灯を寄せてみると,玉の真ん中に指の脂が見えた。しまう前には,確かに磨いている。脂の線は右へ二巻きして,ほどける所に短い畝が一つ離れていた。玉の下の墨にも,同じ所に短い線がある。よく見ようと玉を動かした途端,曇りと拇印が重なった。

私は天眼鏡を持ったまま,二階の入口まで行った。

帳場の女将は,誰も上がっていないという。女中にも尋ねたが,蒲団は私が湯へ出る前に敷き,あとは二階へ来なかったそうである。窓を検めても,猿は内側から落ちたままだった。

部屋へ戻ってほかの書類を繰れば,枚数は合い,付箋も残っている。それだけ確かめたところで,なぜ紐が解け,天眼鏡が出ているのか,分かるわけではなかった。

玉を机へ戻そうとして,手の震えに気づいた。このまま置けば転がしそうで,もう一方の手を添える。曇りは拭かず,その晩は枕元へ置くことにした。これでは眠れまいと思ったのに,朝には自分の方が蒲団の脇まで転がり出て,眼鏡の柄を頬に感じて目を覚ました。

 

翌朝は薬種屋で石松子せきしょうしを求めた。丸薬の衣に使う粉で,脂によく付く。講習でも,これを使えば指の跡が出たものである。

奥から出て来たのは女房だった。

「主人は寄り合いに出とります」

尋ねもせぬうちに言い,包みと引き換えに銭を受け取ると,もう奥へ戻ってゆく。

その足で叶屋へ回り,軒の八つに粉を掛けさせてくれと頼むと,主人の顔が曇った。

「そら,あきません」

「あとで拭えます。傷にはしません」

「傷やのうてな。売り物に妙なことをされると,曰くが付いてしまいますやろ。うちはそれで商売をしとるんです」

昨日の音を持ち出しても,主人は水鉢の柄杓を取り,軒下へ水を撒いている。堪忍しとくなはれ,と返って来るのは背中からの声だった。

周三は見当たらない。粉も封を切れぬまま,持ち帰ることになった。

 

北の蔵の隣に,夜の唄を聞いた婆がいるという。お梅という名を荻野から教わり,連れて行ってもらった。縁側で豆の筋を取る婆は耳が遠く,こちらも大声を出さねば話が通じない。向こうは初めから大声なのである。

「唄なら,よう唄いよってじゃ。夜になるとの,若い声で」

「軍歌ですか」

「軍歌じゃろうなあ。はて,文句は」

豆を膝へ置き,掌で拍子を取った。

「……のはて,浪の……はようえ,いんでこ,いんでこと……」

息が切れると婆は笑い,また初めの節へ戻る。荻野が私の方を見た。

湯屋の年寄りも,これを唸っていたのだ。言葉がなくなっても,同じ所で拍子が揃う。

「いんでこ,いうのは何です」

「帰ろ,じゃがな。はよう帰ろ帰ろいうて,そればっかり唄うのじゃ。お蔭で,わしまで覚えてしもた」

荻野は節を小声で繰り返した。

浦塩ウラジオ帰りの衆が唄うやつですわ。在郷軍人会の酒の席で聞きました。けど,文句は帰りたい,や。いんでこ,とは」

「唄うた者が,そう唄うたんじゃろ」

そう言う頃には,もう豆の筋を取る手に戻っている。

「この夏から聞かんようになっての。静かになると寝つけんもんじゃ。川裾で時々,けったいな音はするが。あれは何じゃ」

返事に窮していると,婆は聞こえなかったものと思い,もう一度,大きな声で尋ねた。

「分かりません」

今度は二人の声が重なった。

帰りには塩茹での豆を持たせてくれた。蕗の葉に包んであって,断ると耳へ掌を立て,何じゃ,と聞き返す。貰わなければ帰れない。道へ出て一つ食べ,荻野にも渡すと,同じように食べた。少し塩辛い。婆の家では,まだ何か言っているのが聞こえた。

 

宿の女将が電報を渡した。

シラベ ウチキリ。フカオイ ムヨウ。スミヤカニ キニンサレタシ。シテン。

女将の前で読むつもりが,もう封を開けていた。読み終わるのを見て向こうが頭を下げるから,私もつられて下げる。詫びられることではないのだが。

晩飯は食べた。何が出たかは覚えていない。

涼み台へ行くと,しずりがいた。

「橋の下の犬,近頃見んな」

「向こう岸に居る。子を連れておった」

「子が出来たんか」

「三つじゃ」

三匹がくっついて寝ているところを考えてみる。暫くそうして座っているうちに,電報のことは話さずじまいになった。

 

帰りは依田の家の裏を通った。紙の焦げる匂いがする。生垣越しに小さな火が見え,その傍には煙管の赤い点も動いていた。足を止めていると,向こうから声が掛かった。

「保険屋さんかの。そこは蚊が食う。入って来なはれ」

開いている枝折戸しおりどを入ると,依田が庭石に腰を掛けている。膝脇に積んだ紙の束から,こちらが近づく間にも一枚抜いて火へくべた。

「反故じゃ。四十年もやっとると,溜まるばかりでな」

「投薬の控えを見せて頂きたくて,伺いました」

「臭素加里やろ。薬種屋で聞きなはったそうやな」

狭い町だ,と笑う顔に,こちらは笑い返せない。

「いつからいつまで出ていたか。それを」

「あきません」

風で崩れた火の端を,依田が火箸で戻してゆく。まだ白い紙も,一緒に内へ押し込まれた。

「病人の控えじゃ。よその人へは見せられん」

「亡くなられた方のことです。何か,見違いがあるのでは」

「長患いの紙はな,印南さん。前の年のを見て書くのじゃ」

依田は煙管を二度,三度と吸う。火が消えかけているらしい。

「量が変わらんと,薬の名も同じや。二年目からは手間の掛からん紙になる。……あんたの欲しいことが,そこに書いてあるかの」

膝脇の束を見ても,隠す気配はない。また抜き取った一枚の字が焔に透け,すぐ黒く縮んでゆく。表を読めるほど近づくわけにもいかなかった。

「夜分に失礼しました」

立ち上がった私を,依田は川沿いへ行くなと止めた。土手にまむしの出る時分だから,帰りは表を歩けという。

枝折戸の外からもう一度礼を述べると,返事の代わりに,煙管を打つ音が聞こえた。

翌晩にも通ってみたが,もう火は見えない。匂いの残る足元に白い灰が一片あり,拾おうと触れただけで崩れた。

胸には帰任を命じる電報がある。今から荷を作れば,明日の朝の乗合に間に合う。

いったん表の道へ出ながら,途中でまた川側へ折れた。番をしている者の前を通らずには,どうも宿へ帰れない。