翌日の昼,しずりは橋の真ん中で川上を見ていた。影のない所である。畳んだ日傘だけが,欄干に預けてある。
「このままでは,番は続かぬ」
欄干についた掌が熱い。おれは手を離した。
「毎晩,頼み過ぎたな」
「礼の話ではない。眞平,主はいつ発つ」
「まだ居る」
「会社は帰れと言うたのであろ」
聞かせた覚えはない。なぜ知っているかを尋ねるのも,今は面倒だった。
「あの仏が誰やか,まだ分からん。人の名で焼いてしもたら,分からんままや」
しずりの目は川上を離れない。
「帰れば,また判を捺すのかえ」
「調べは打ち切りと,書いてな」
「それが嫌か」
今度は袖のある肘を欄干についた。それなら,熱くない。
「嫌や」
二人で暫く,川の音を聞いた。やがて傘を取ったしずりが,橋板を石突きで一つ鳴らす。
「明日から,氷を一貫増やせ。夜の風が生温うなった」
「番は」
「四杯じゃ。二度言わせるな」
先に歩き出す背中へ,傘を差せと言いかけて,やめた。言って差す相手ではない。おれは橋に残り,もう少し川を眺めていた。
夕方には荻野が訪ねて来た。いつもの帳面は見えない。
「本署の先輩に,手紙で聞いてみたんですわ。大正十年頃に,家の不始末で人が死んどったとして,今になって分かったらどないなるか,と」
框へ浅く腰を掛け,膝の間には制帽を挟んでいる。
「過失なら,もう時効やそうです。世話をせんかった,放っておいた,いう方でも三年で切れる。わざと殺した証しでも出んことには,古い死を見つけただけでは,縛れんと」
「そうですか」
「そうですか,て」
あとを言わぬので,麦茶を頼もうと立ちかける。その前に,荻野が帽子を持ち上げた。
「それだけ,伝えに来たんです。知らんままで続けはるのも,どうかと思うて」
下げた頭が戻ると,もう帰ってしまう。帽子を押しつけていた膝の所だけが,濃く濡れて見えた。
夜の客は精一郎で,今度は着流しだった。
「会社が調べを打ち切ったと,父が申しておりました」
「私はまだ居ります」
「それで,伺いました」
精一郎は畳の継ぎ目ばかり見ている。何か持って来たのかと思ったが,両手は空いていた。
「子供の頃,伯父が格子を敲くのを聞きました。夜中に。あれが怖うて,奥へ行けんかった」
言葉を探す間を,外の荷車が軋みながら通り過ぎる。遠ざかる音を待って,精一郎は続けた。
「五年前,帰省した晩に,蔵から唄が聞こえたんです。いい声でした。聞いたことのない唄やった。……あれが伯父の声やと思えんで」
「その時,確かめはらへんかった」
「ええ」
ええ,とはすぐ出たのに,そのあとが続かない。
しばらく待って,こちらから聞いた。
「蔵を,開けますか」
「父に話します。開けたあとどうなるかは,だいたい考えてあります。伯父でない人の書類を作ったのなら,私も詐欺を疑われるでしょう。伯父が前に死んでいたとなれば,相続もやり直すことになる。認知された方が一人おります。父より先です」
精一郎は顔を上げた。
「銀行が,その間を待ってくれると思いますか」
「私には何とも」
「待ちません。春から,ずっとそんな話をしております。蔵は手放すことになると思います」
湯呑みを寄せてみても,手を出そうとはしない。
「閉めたまま何とか済まんかと,五年考えました。帳面のことなら,私の方が分かるつもりでした」
少し笑う顔に,私も笑うところかと迷った。そのうち,もう元へ戻っている。
「盆までに父が肯かなければ,私の判で開けます。鍵はあるんです。帳場の箱に,ずっと」
帰ろうと立った精一郎が,一歩よろける。足が痺れたらしい。支えに出た手へすみませんと詫び,自分で踏み直すと,何でもなかったように階段を下りて行った。
翌朝,女将が廊下へ両手をついた。
「盆の講のお客さんが,二階を使わはることになりまして」
夏は空いている,と言っていた口である。私は,そうですか,とだけ返した。
「ほかのお宿も聞いてみたんですけど,みなお盆で一杯やと。うちも商売ですさかい,堪忍して下さい」
女将の頭が上がるのを待って,宿賃を頼んだ。出て来た勘定に違いはない。
荷は行李一つと鞄で済む。橋の柳の下まで来ると,しずりが肩の括りへ手を出し,緩んだ片方の縄尻を引いてくれた。
「茄子で二杯の宿とも仕舞いかえ」
「覚えとったんか」
「食い過ぎじゃ」
「今夜から,食えるか分からんのやぞ」
返事の代わりにしずりは先を歩き,冷や蔵の手前で川原の石段へ折れた。
番小屋は兄の親爺が開けてくれた。蜘蛛の巣を箒へ巻き取るついでに,戸口の草まで二,三本抜いている。
「一晩五銭。先に頂きます」
銭を渡すと,親爺は軒を指した。
「あれは鳴りませんさかい。舌も短冊も無うなって,長いことや」
煤けた硝子の鈴だった。覗いても内は空っぽで,向こう側の空が透けている。
昼前には周三が木箱を胸に抱いて来た。きちんと風呂敷に包んである。
「軒の八つを持って参りました。検めは,こちらでして頂きたいと」
「御主人が,ええと言われたんですか」
「店へ返すには及ばんそうです。曰くの付いた売り物は置けんと」
代も要らぬという。今朝移った寝床を,もう知っている。
解いた風呂敷の内には,藁を挟んで八つが並んでいた。石松子を薄く掛け,刷毛で余分な粉を払う。硝子に触れた指の形だけが,あとに残る。
一つ目から,右へ巻く渦と,離れた短い畝が出た。
二つ目も同じである。
紙の端を押さえる周三は,私が息を止めれば自分も止める。それでは苦しいので,ゆっくりでええんです,と声を掛けた。
八つを終えて,違う指は出なかった。証券を横へ並べると,周三も見比べている。何も尋ねようとはせず,ひと通り済めば風呂敷と空箱を片づけ始めた。店の使いを忘れまいとしているようでもある。
「御主人に,礼を」
「はい」
まだ何か言いたそうに見えたが,周三は頭を下げて帰って行った。
駐在所へ持って行くと,荻野も机へ顔を寄せた。並んだ硝子と証券の上が,二人の頭で暗くなる。
「ここが,二又になっとる。こっちも……」
交互に指すうちに,荻野の言葉が途切れた。向き直った顔は,私の答えを待っている。
「明治四十五年に判を捺した指が,叶屋に触っとるように見えます」
「その人は,冷や蔵に」
「冷や蔵の人の親指は焼けています。比べられません」
荻野は背を起こした。
「型を取った悪戯や,いうことは」
「宿の二階にも,同じ指が残りました」
「それは」
「誰も上がっていないと言われました」
どちらが口を開いても,相手の気を楽にはしてやれない。荻野が注いだ麦茶をすぐに飲んだが,渇きのわりに,喉を通る時だけつかえる。
初めて番小屋へ寝た晩,戸を叩く音がした。
タヅが,手拭いの包みと提灯を下げて立っている。
「夜食じゃ。ここの竈は,使えんじゃろ」
包みを置いても敷居の外を動こうとせず,座るよう勧めた私に,タヅは首を振った。前垂れの端を折っては戻す手だけが休まない。
「儂はの,あの蔵へ,二十年近う膳を運んだ」
私は框に座り直した。
「臭う夏があっての。大水もあった年やったさかい,床の土が腐れたんやと思うた。梯子の下の蓑が失せた時も,誰かが持って行ったんじゃろうと」
前垂れは手の中で,だんだん細くなってゆく。
「あの蔵の鈴は,儂が買うたのじゃ。入りなはった二年目の夏に,内緒で吊った。朝,格子の内から礼を言いなはった。ちゃんとした声じゃった」
そこでタヅは息を吸った。
「あとになって,あの児が止めてくれと頼んだ。鳴ると,下の御人が起きてしまう,いうて。儂は舌を抜いて,差し入れ口から渡した」
提灯の明かりが片方の草履へ届いている。私はそこを見ていた。
「何をしてるんやと,聞けばよかった。あの目を見てな,聞けんようになったんじゃ。まともの目やった」
黙っていると,川の音が近い。
「下の御人にはの,子が生まれたことを教えた。男じゃと。周三という名じゃと。キヨはまだ床におったから,儂が」
「叶屋の」
タヅは頷いた。
「キヨも,一昨年の秋に逝ってしもうた。あの子が一人で,よう葬りを出してな」
前垂れを畳む手が止まり,頬の所だけ濡れてゆく。タヅはしばらくそうして立ち,やがて袖で拭った。
「子の名なんぞ,知らせなんだらよかったのかの」
返せる言葉が見つからない。
タヅは框の包みへ指を向けた。
「早う食べなはれ。冷めるともみない」
提灯が川沿いを遠ざかる。明かりの橋の袂へ消えるまで見送って,小屋へ戻ろうとした。
その時,軒が目に入った。
鈴が揺れていた。
ゆっくり右へ行き,戻って来る。風はない。音もない。こちらへ口を向けるたび,空の内側が少し見える。
顔を下ろし,それ以上見上げぬまま小屋へ入って,心張り棒を掛けた。
包みを開けば握り飯で,一つ口に入れると塩は充分に利いていた。それでも,飲み込むには湯が要る。
手帖の句を出して,中七と下五を消した。残るのは,氷の番。この六つの音から直さねばならぬのに,やはり手が出ない。
寝返りに板が鳴る。隣は冷や蔵である。格子の鍵は帳場にある,誰でも手に取れる所にあった,と精一郎は言っていた。朝晩,あれだけ人が通っていたのに。
寝返りをやめてみても,目はなかなか閉じられなかった。