温順08 / 11

精一郎が朝早く訪ねて来た。前掛けを広げた上に,大小二つの鍵がある。

「今日,開けます」

「お父上は」

「肯きませんでした。止めもしませんでした」

駐在所へ寄ると,荻野は椅子から立ち,帽子を被った。何をしに行くかは,鍵を見て分かったらしい。

北の蔵では,しずりが畳んだ日傘を手に戸前で待っていた。庇には叶屋から買った鈴も見えるが,やはり中身はない。

戸前の錠は大きい方の鍵で回った。朝夕に膳を運ぶ者が触るので,鍵穴の縁だけ鉄が白く光っている。

引き開けた戸から熱気が流れ出し,埃と藁の匂いがした。しずりは敷居の外に留まる。奥へ入って振り返ると,その分だけ戸口の明かりが狭くなっていた。

 

蔵の奥半分を太い格子が区切っている。腰の高さには膳を通す口があり,長いあいだに縁が丸く擦れ,片方だけ低くなっていた。格子戸の錠は,六月に仏を出すため開け,また閉めたものだという。精一郎の言葉どおり,鍵穴の周りに新しい掻き傷が見える。

「膳の口からでは,出せませんので」

言わずとも分かることを言い,精一郎は小さい鍵を持ち上げた。

穴へ届く手前で,鍵先が止まった。持ち直しても,差し込もうとはしない。荻野も私も待つほかなかった。

戸口から,しずりの声がした。

「開かぬのかえ」

「開きます」

精一郎の返事と一緒に鍵が入り,中で鉄の擦れる音がした。格子戸は下が歪んでいる。荻野が端へ手を添え,少し持ち上げて,ようやく開いた。

畳が二枚,隅には畳んだ夜具,膳には伏せた椀が一つある。荻野は手袋をはめてから,椀を起こした。内側に筋が二本,一つは縁に近く,もう一つは半分ほどの高さを巡っている。顔を寄せた私は,椀の向こうへ手を回しかけて,やめた。

荻野も何も言わず,元の所へ戻した。

畳から差し入れ口まで,床に擦れた跡が続く。その先にはなく,高い明かり取りから差す一筋の日の中で,小さな虫が飛んでいた。

北側の板壁は黒かった。

炭で,字が書いてある。シタニヰル。

大きな字の下へ小さな字が重なり,さらに下では細かく揃い,同じ文句が続いている。拭き消した所にも,また書いてあった。床へ転がる炭は,もう指でつまむほどしかない。

「下に,居る」

荻野が声に出した。私は壁の下へしゃがみ,炭書とは別に,釘のようなもので引いた疵を見つけた。埃を詰めて黒ずんだ溝が四字,床から指三本ほどの高さにある。

シウザウ。

立って書くには低過ぎる。横になれば届く。そこへ手を当てることはせず,私は膝を少し戻した。

精一郎はまだ格子の外にいる。中へ入れという者はなかった。

 

畳を上げると,一枚の床板に節穴があった。親指ほどの穴の縁が,黒く光っている。周りに散った白茶けた粒は,よく見れば古い飯粒だった。

借りた釘抜きで初めの板に掛かると,頭の深く錆びた釘が出た。次の一本はそれほどでもない。一度剝がして打ち直した床らしい。

板を上げるかたわら,抜けた釘を拾って錆の深いものと浅いものに分けていた。そこまでしなくてもよいのだが,やめると手が空いてしまう。

三枚目で,匂いが変わった。濡れた蓑を土間へ置き忘れると,乾いたあとにも,こんな匂いが残る。

床から二尺も下らぬ土の上に,人が横たわっていた。

蓑にくるまれ,膝を曲げている。骨になった顔の下には,まだ着物を着ていた時の位置に,帯の金具が留まっていた。胸に載っているのは,糸の環を上端に残した,細い硝子の棒である。真上を確かめれば,あの節穴に当たった。

荻野が長く息を吐く。さっきから止めていたのだと,その音で分かった。

左腕の骨は途中で太く盛り上がり,そこから少し曲がっている。折れたあと,そうついたものらしい。

 

精一郎がタヅを呼んだ。

蔵の敷居で両手をついたタヅは,穴の縁まで来て膝を折るなり,蓑の肩を指した。

「先代さんのじゃ。そこ,帆布を当ててある。儂が縫うたのじゃ」

土より白い当て布なら見える。針目までは分からない。

「先代さんが亡うなってから,梯子の下へ掛かったままで……」

戸口が暗くなった。

羽織姿の敬吾だった。挨拶もせず穴へ近づき,タヅの退いた分だけ,さらに一歩を詰める。長いこと見下ろしていた。

「兄さんは,小さい時に,この蔵の梯子から落ちましてな」

敬吾は自分の左腕へ手をやった。

「町の接ぎが悪うて,こう,曲がって付いてしもうた。冬になると疼くいうて,よう擦っとった」

掌の通る前腕の辺りが,骨の瘤と重なった。一度擦り,もう一度,同じ所を撫でる。

敬吾が膝をつくと,精一郎は言いかけた口を閉じた。タヅも前垂れの土を払うばかりで,いつまでも同じ所から手が離れない。

 

骨を上げるには,周りの板も外す必要があった。

日が回り,明かり取りの光は足元まで来ている。残りの板に釘抜きを差し込み,少し浮かせた時だった。

左の袖を引かれた。

きゅう,と袖口が締まり,離れた。

強くはない。布の上から指が掛かり,その重みだけが残る。板の下を覗いても,見えるのは暗い土ばかりだった。

荻野は向こう側で紐を切り,精一郎も敬吾も格子の所にいる。しずりの姿は,まだ戸口を離れない。

おれは釘抜きを右手へ持ち直した。今まで同じ手で持っていたものを,もう一度。残りの釘を抜いて板を置くまで,こちらを見る者はいなかった。

蓑ごと上げた骨は思ったより軽く,持ち上げる者の手が少し余る。本署へ届けを書く荻野の脇に,書き損じが二枚溜まった。三枚目でも名の所で止まり,敬吾に改めて尋ねる。返事を聞いてようやく,続きの字を加えた。

戸前へ出ると,しずりが白い息を吐いていた。

その目がおれの左袖へ来て,何も言わずに戻ってゆく。こちらも,引かれた話はしなかった。

川を下れば,氷の上にはまだ一人残っている。今まで縫之助と呼んでいた人だ。顔を思い出そうとしても,歯ばかりが先に浮かんだ。