仏を氷から下ろしたのは,蔵を開けて二日後だった。
検分を済ませて荼毘の許しが出ると,寺男の曳く車が川裾へ入り,あとから敬吾もやって来た。今日も羽織を脱がない。襟の内に汗が溜まっているのに,拭く気配もなかった。
「右の手を,見せてもらえんじゃろか」
手元だけ白布を返すと,敬吾が脇に膝をついた。焼けた親指へ,長く目を落としている。
「監置は,親父の決めたことじゃ。あの頃,わしの言うことなんぞ,家の中では通らなんだ」
車の脇では寺男が縄を解いている。敬吾の目がそちらの手元へ移った。
「診立ては先生がした。わしは紙を読んだだけでな。飯を減らしたのも,奥の指図じゃ。病人は食わん方がええと,家内が」
そこで言葉が途切れ,膝の上を右の掌が擦った。
「……指を焼いたのは,わしじゃ」
私は白布の端を持ち上げていた。離せば指が隠れてしまうので,下ろすわけにもいかない。
「亡くなってから,行灯を寄せてな。手が震えて,何遍も引いた。これは兄さんの指やない,兄さんの指やない,と唱えた。ほんまのことやったからな」
敬吾は親指に触れなかった。
「ほんまのことを言うとるのに,なんでこないに震えるんじゃろと思うた」
敬吾が白布を掛け直し,皺を伸ばす。その手を膝について立つと,私へ丁寧に頭を下げた。
「ようも,冷やして下さいました」
私も頭を下げてしまった。
動き始めた車のあとを,敬吾が歩く。道沿いの家では,荷が通るあいだだけ戸口に人が出て,皆,頭を下げた。車が角を折る頃には,もう引っ込んでいる。
氷屋の兄弟は台を解き,余った氷を筵へ包みに掛かった。店で使うのだという。
「昼から削ったら,子ぉらが買いますさかい」
弟が持ち上げる氷の中を,川の光が通ってゆく。兄は溜まった水を流してから,戸板を壁へ立て掛けた。
夕方,裏山に煙が上がった。
氷の勘定も,これで閉じる。検分の初めから十三日は一貫ずつ,あとの四日は二貫ずつ,合わせて二十一貫,十四円七十銭になる。先払いと帳面に残った分をひとまとめにして,受け取りを一枚書いてもらった。
会社から仮渡しされた旅費を使っているから,認められなければ,自分で返さねばならない。証拠保全費と書いて渡すと,親爺も名目の欄へ同じ字を入れてくれた。保の字で手を休め,こちらの手本を一字ずつ見比べている。
晩にはしずりも涼み台へ来たが,もう器を持っていない。
「番は,これで仕舞いや」
「そうじゃな」
夜を数え直してみると,おれの勘定とも合っている。ほかに何か言うつもりで座り続け,結局,それきりになった。
翌朝は,器を下げる小僧も来ない。台の端に水の輪だけが残り,昼までには乾いていた。
八月のうちに,柴の井の母屋と蔵へ銀行の札が貼られた。
銘を灘の大手へ渡す話が進んでいて,蔵人も向こうへ移るのだと,氷屋で聞いた。
「腕はありますさかい,仕事には困らんでしょう」
兄の親爺はそう言ってから,遠くなるけどな,と小さく付け足した。
桶屋から樽を載せた荷車が出てゆく。宿では小女が梯子に上り,女将の指図で掛け札を磨いていた。
「まだ居てくれはったんですか」
見つけるなり声を掛けられた。
「もう少し」
「秋の寝間割りで,うちは今から大騒ぎですわ。向こうから見に来はるお客もありますし。……北の蔵は,えらいことでしたなあ。せやけど,仲買さんの来はる前に片付いて,助かりました」
女将は札を一枚受け取り,布巾で拭いた。
「次は二階の川側,空けときますさかい」
私は返事をしなかった。
女将の布巾が止まった。
「何ぞ,言い方が悪かったやろか」
こちらの言葉が出ぬうちに,小女が上から札の順を聞いた。女将はもうそちらを向き,違う,そっちが先や,と指図をしている。
橋際の井戸端をタヅが桶を下げて通ると,立ち話が途切れた。顔を向けるでもなくタヅは歩き,その姿が角へ消えれば,また声が戻ってくる。
夜には,何も鳴らなかった。
以前の時刻に目を覚まし,川を聞いて戸の隙間を眺め,また横になる。そんな夜が続いた。昼間,桶屋の箍が爆ぜて肩を跳ね上げたこともある。大きい音でしたな,と笑う店の者に笑い返しても,しばらく首の硬いのが取れなかった。
湯屋の札箱は,底が見えるようになっていた。
前よりぬるい湯に,あの年寄りが一人浸かっている。場所も変わらず,唄は相変わらず途切れ途切れだった。
上がり場で声を掛けた。
「戸井寅蔵という人を,御存じありませんか」
「戸井……」
年寄りは手拭いを首へ掛けたまま,思い出そうとするように私を見た。
「蔵の人です。ずっと前には,小僧をしていた」
「蔵の衆は,ようけ出入りしたでな。済まんが」
出面帳の写しを出し,在所と小僧の年を読んで聞かせたが,それでも年寄りの顔は変わらない。
お梅の節を低くなぞってみる。初めは声も出ず,唄にならなかった。指で拍子を取りながら,二度目に掛かった時である。
「寅やん」
年寄りの口がこちらを追い越し,知らぬ文句を一節唄って止まった。
「寅やんの唄や。あんた,知っとったか」
「お名前しか」
「湯の中で仕舞いまで唄うさかい,のぼせてな。真っ赤になって出て来よった。わしまで覚えてしもうた」
年寄りは湯船の方を見た。
「戸井や。そうそう,戸井とこの寅やんや」
「いつ頃から来んようになりました」
今度は,何年か指を折ってみては首を傾げる。とうとう,その手を下ろした。
「湯屋の顔は,来んなった日を覚えとらんでな」
聯隊区へ照会を出すつもりだと話せば,自分の名も添えよという。在郷軍人会の世話役を,長く務めていたのだそうだ。
精一郎の許しを得た出面帳の写しと,年寄りの一筆を添え,駐在所の机で状をしたためた。十日ほどして届いた返書には,戸井寅蔵,大正八年に浦塩から帰還,とある。その後の消息は記されていない。
出面帳の写しへ並べると,記載は合っていた。
寅やん,と呼んで,氷の上の顔を思い浮かべてみる。歯ばかりでなく,剃られた顎も,少し開いた唇も,今度は出て来た。
九月になって,荻野が取調べの始末を知らせに来た。
「書面はお見せ出来んのです。自分の言葉で話しますさかい,どこぞ違うてしまうかも知れません。そのつもりで聞いて下さい」
框へ腰を掛けた荻野が,白湯を一口飲む。冷や蔵からは,もう冷気も漏れてこなかった。
「最初の監置は,届も許可もあって,手続きには適うとる。あれだけでは罪に問えん,ということです」
次のことを言う前に,荻野は湯呑みを置いた。
縫之助の死は,大正十年の師走である。祝言で家の者が三日そちらへ掛かりきりになり,膳を運ぶはずのタヅも腰を痛めていた。頼んだ言伝ては,祝いの混雑でどこかで途切れてしまったという。
三日と半日,誰も蔵へ行かなかった。
「過失の疑いは濃いが,時効は済んどる。床下へ納めたことも,同じく三年で切れとるそうです」
私に浮かんだのは,幾度も前垂れを畳んでいたタヅの手である。
「戸井さんのことは」
「大正十一年の春に,御自分で判を捺しとってです。飯と寝る所を貰えるなら入る,と。帰って来ても身寄りがなく,身体を悪うして,蔵の仕事も続かんようになっとった」
荻野は膝の上で掌を開いた。
「そういう判でも,判は判や,と。監禁には当たらん,いう扱いです」
「出たいと,言わんかったんでしょうか」
「それを聞いたという者が,おりません」
荻野は言い直さず,そのまま口を閉じた。しばらくしてから聞いた残りの話では,寅蔵の死は病死とされ,罪を問えるだけの証しも出なかったという。
残るのは,保険金の偽りの請求と,仏の指を焼いたこと,診断書の偽りである。敬吾は年齢や身体に加え,家業も失ったことを酌まれて,起訴を猶予された。依田の医師免状は,県で改めて調べるそうだ。
「先生は,何と」
「一遍,狂人と書いた筆は,二度目からは手前で書く,と言わはったそうです。ほかは,あまり」
荻野は冷めた白湯を飲んだ。
「前に,お伝えした通りになりました」
帽子を被ったので,私も立ちかけた。それでも荻野は腰を上げず,しばらく待った末に,何も付け足さず帰って行った。
報告は私の名で書いた。
真柴縫之助の死亡日は,大正十年十二月頃とした。頃の一字は外せない。臭素加里の出なくなった時期,実査の記載が変わった年,賄いに酒一合の始まった月を,順に挙げてゆく。酒の行へ印を付ける手が,一度止まった。初めに見た時には,この頁をそのまま通り過ぎている。女将も敬吾も,一滴も飲めぬ人だと言っていたのに。
左腕の骨の瘤にも触れ,弟の覚えと合うことを書き添えた。
戸井寅蔵の死亡は,昭和二年六月二十八日。氏名の照会と出面帳の写しは揃うが,指の写しは九本しかない。空の封筒を一つ抜こうとして,やめた。表に右拇指,採取不能と入れ,何も入らぬまま綴りへ加える。
結論の欄には,支払い義務なしと記した。
六月二十八日に死んだ人は,被保険者ではない。縫之助の死亡日へ戻して請求し直すにしても,証券の約款にある二年の時効は,とうに過ぎている。
ここまででやめれば,会社の望む報告になっただろう。
契約は明治四十五年で,その三年前には禁治産の宣告が出ている。確かめもせず拇印を本人の承諾として受け取り,それから十五年,保険料を取り続けたのは,こちらの会社だった。
契約時の承諾にも疑義あり,と加える。この一行が誰の机で止まるかは,だいたい見当がつく。書き直せと言われたら何と返そうか,そこまで考えかけて筆を置いた。
三千円は支払われない。書いているおれにも,別の結論を出す権限はないのである。
その晩も,しずりは涼み台にいた。番は済んでも,川を見るために時々来る。
「夜は冷えるな」
「主が痩せたのじゃ」
「飯は食うとる」
しずりの目は,川を離れようとしない。
「報告を,読む。長いけど」
「読め」
行灯を框へ据えて一行目から読んでゆくと,時々,声が川に紛れてしまう。しずりは両手を膝へ置いたまま,聞いていた。
名の所で,もう一遍,と言った。
「戸井寅蔵。とい,とらぞう」
「とらぞう」
口の中で返し,しずりは頷いた。
終わりまで読んで紙を重ねる。感想を聞くのは何か違う気がして,おれは黙り,しずりも口を開かなかった。
部屋で報告を綴じながら,この中にない事柄を考えた。天眼鏡の曇りも,風鈴のことも,手帖にしかない。挟んだ紙の落ちぬよう,そちらには古い紐を一本,表紙から回しておいた。